関東平野北西部、前橋堆積盆地の上部更新統から完新統に関わる諸問題
矢口裕之
財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団発行 2011年3月
研究紀要 第29号 21-40頁から転載をWeb版として改訂

(6)テフラの年代
 テフラは火山の火口から短時間に噴出され、空中を運ばれることにより広域な地域にもたらされる。これによりテフラ層下面が同一の時間面として有効な鍵層であることが確かめられている。遺跡は論を待たず地形面や地層の対比にも不可欠であり、これを利用した編年は火山灰編年学と呼ばれる。また理化学的な年代測定法で得られた放射年代は、編年の目盛りとして活用がなされている。
 関東平野北西部の利根川流域のテフラの編年は、新井(1962)に始まり、新井(1979)、早田(1990)、新井(1993)、竹本・久保(1995)、早田(1996)によって進められた。また、浅間火山起源のテフラの放射性炭素年代は、中村ほか(1997)や辻ほか(2004)により明らかにされ、最近では下岡(2010)によりまとめられた。
 後期更新世から完新世のテフラの年代は、主に放射性炭素年代やフィッション・トラック法などの理化学的な年代測定と年輪年代法、共伴する遺物から推定される考古学的な相対年代や文献史学などの史料から求められる暦年代などである。放射性炭素年代は、年代値を補正後に暦年代較正を行い較正年代での議論が一般化している。
 近年、土器に付着した少量の炭化物で高精度の年代測定が進められ、考古資料の編年と較正年代が検討されてきた。本論文では、国立歴史民俗博物館が進めた考古資料の較正年代(小林2007)、(小林2008)、(小林ほか2009)などから想定される考古資料の暦年代巾と地域的な放射性炭素年代を検討し、テフラの暦年代を推定した。なお放射性炭素年代の較正は、補正が行われなかった過去の資料も概ねの年代を推定するためにOxCal4.1を使用し、較正曲線はintCal09を使用して検討した。
 榛名八崎テフラは、44,000±4,500と42,000±9,000のフィッション・トラック年代(鈴木1976)が得られ、室田軽石流は40,500±3,500y.BPの放射性炭素年代を示した(大島1986)。町田・新井(2003)は、その年代を50千年前と推定している。
 赤城鹿沼テフラは、32,000±4,000と31,000±8,000のフィッション・トラック年代値(鈴木1976)が得られ、町田・新井(2003)は、その年代を45千年以前と推定した。
 榛名三原田テフラは、財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団(以下、事業団と略す)の発掘による吹屋遺跡(事業団2007)で32,430±450y.BP、荒砥北原II遺跡で29,780±400y.BPの放射性炭素年代が得られた。この推定暦年代は、37.0〜34.0千年前である。
 姶良Tnテフラは、24,500y.BPの放射性炭素年代が村山ほか(1993)により提示され、伊勢崎市の三和工業団地遺跡I遺跡(事業団1999)では24,970±140y.BPの放射性炭素年代が得られた。ATの較正年代は、28千年前とされ、後期更新世における第一級のマスターテフラと位置づけられる。
 浅間室田テフラ及び浅間板鼻褐色テフラ群は、軽部(1994)によりBP中部が19,260±260から20,420±330 y.BPの放射性炭素年代が得られ、BP上位に層準がある前橋泥流の層位からは19,560から24,000y.BPの放射性炭素年代(中村ほか1997)、(下岡2010)が得られている。これらの推定暦年代は、27.0〜23.0千年前である。
 浅間白糸テフラは中村ほか(1997)により20,610±260と22,100±260y.BP、渋川市の上白井西伊熊遺跡(事業団2010)では17,750±70と20,030±80y.BPの放射性炭素年代値が得られた。この推定暦年代は21.0千年前である。
 浅間大窪沢テフラ1、2は、辻ほか(2004)により16,500±440から16,880±130y.BPの放射性炭素年代が得られた。これらの推定暦年代は20.0〜19.0千年前である。
 浅間板鼻黄色テフラは、ATについで放射性炭素年代の測定がなされており、13,040±130〜14,000±230y.BPの放射性炭素年代(中村ほか1997)(下岡2010)が得られ、13,600y.BPに年代が集中する。この較正年代は17.0〜16.5千年前と推定され、北関東における後期更新世末のマスターテフラである。
 浅間総社テフラは、11,940±130から10,090±210y.BPの放射性炭素年代(中村ほか1997)(下岡2010)が得られた。これらの推定暦年代は14.0千年前である。
 浅間宮前テフラは、藤岡市の上栗須寺前遺跡(事業団1992)で8,190±170y.BPの放射性炭素年代が得られた藤岡軽石(古環境研究所1992)に対比される。前橋市の上細井中島遺跡(事業団2010)では縄文時代早期の撚糸文土器の包含層に層位がある。これらのことから本テフラの推定暦年代は10.5千年前である。
 鬼界アカホヤテフラは、町田・新井(1978)によって約6,300y.BPの放射性炭素年代値が得られている。この較正年代は7.5千年前とされ、完新世中葉における第一級のマスターテフラとなっている。
 浅間六合テフラは、早田ほか(1988)によって5,410±75y.BPの放射性炭素年代が得られた。この推定暦年代は6.0千年前である。
 浅間Dテフラは、小滝火砕流から4,500±150y.BPの放射性炭素年代が得られた(荒牧・中村1969)。また、安中市松井田町の千駄木遺跡では浅間Dテフラが、縄文時代中期後半の加曽利E式土器包含層に挟在される(能登1983)。北群馬郡吉岡町の舞台遺跡(事業団2010)では、浅間D-2テフラが加曽利E式土器以降の遺物包含層に挟在している。これらのことから推定暦年代は5.0千年前である。
 浅間C(朝倉)テフラは、山本(1969)が4世紀中頃、尾崎(1971)はA層と呼び前橋天神山古墳の基盤のものとして、4世紀初とした。山本(1971)は降下年代を4世紀中頃としたが、山本(1975)では考古資料により4世紀前半とした。新井(1979)は山本や尾崎の年代観をもとに4世紀前半の年代を踏襲した。
 石川ほか(1979)は群馬県内の遺跡と火山灰の関係を集成し、本テフラの年代を4世紀中葉と考えた。友廣(1988)は、渋川市の有馬遺跡の考古資料を検討し4世紀初頭とした。能登(1983)、能登(1989)は古墳や住居とテフラの関係から4世紀中葉あるいはそれに近接した第二四半世紀と考えた。友廣(1992)土器編年の年代観から3世紀後半代と考え、新しくも4世紀初頭とした。
 その後、考古学的な年代観は4世紀中葉説を準拠する傾向となり、新井(1993)は根拠を明示しないまま、本テフラの年代を4世紀中頃とした。若狭(1998)は、4世紀中葉とした年代に準拠することは誤りであるとし、3世紀に遡る可能性を指摘した。
 榛名有馬テフラは、町田ほか(1984)により、渋川市の黒井峯遺跡3号墳の周堀から検出され、同古墳の年代から5世紀〜6世紀初頭とした。
 榛名二ッ岳渋川テフラは、新井(1979)が尾崎(1966)の二ッ岳降下軽石の年代と尾瀬ヶ原の泥炭層の堆積速度をもとに6世紀中頃〜末とした。石川ほか(1979)は6世紀前半と考えた。能登(1983)は、テフラの上下から出土する土器の年代観を根拠に6世紀前葉ないし5世紀末と考えた。右島(1983)は須恵器の年代観から5世紀末から6世紀初頭と捉えた。坂口(1986)は、前橋市の荒砥北原遺跡から出土した考古資料をもとに6世紀初頭とし、能登(1989)はこれを踏襲した。坂口(1993)は本テフラの降下年代を6世紀第一四半期とした。坂本(1996)は須恵器の年代観から西暦520〜525年と考えた。中村ほか(2008)は、本テフラの火砕流堆積物の炭化材からウイグルマッチング法による放射性炭素年代測定を行い、本テフラの2σの暦年代範囲を西暦485〜504年とした。藤野(2009)は本テフラが暦年代で5世紀末と想定された場合、5世紀末から7世紀の須恵器暦年代の調和性を述べた。
 榛名二ッ岳伊香保テフラは、尾崎(1961)により6世紀末と考えられ、新井(1962)はこれを踏襲した。尾崎(1966)は考古資料をもとに7世紀初頭とし、新井(1979)はこれを踏襲した。石川ほか(1979)は古墳の年代観から6世紀後半と考えたが、能登(1983)は土器編年から6世紀中葉とした。坂口(1986)は、遺跡から出土した考古資料をもとに6世紀中葉とし、坂口(1993)は6世紀第二四半期とした。
 浅間B(天仁)テフラは、荒牧(1968)が放射性炭素年代や史料の「古史伝」をもとに1281年(弘安4年)の噴火記録に比定した。山本(1971)、山本(1975)は平安時代の住居の覆土と女堀の土堤の層序関係をもとに年代を推定し、史料の「中右記」の記述に比定し、噴火を1108年(天仁元年)とした。新井(1979)は、山本(1975)の推定した年代を引用し、1108年の噴火(天仁元年説)を支持した。石川ほか(1979)は11世紀中葉の住居が本テフラと数センチメートルの間層を挟んで埋没したことを述べ、天仁元年説を支持した。能登(1983)も同様の見解を示した。
 浅間粕川テフラは、早田(1995)、早田(2004)が史料の「長秋記」の記述に比定し、1128年(太治3年)の噴火とした。早川(2010)は、「長秋記」の解釈を行い、粕川テフラに相当するBスコリア上部の噴火は、浅間Bテフラと同じ年の1108年と考えた。
 浅間A(天明)テフラは、荒牧(1968)が浅間火山の噴火史をまとめ、放射性炭素年代や様々な史料から1783年(天明3年)の噴火記録に比定した。新井(1979)は、荒牧(1968)の見解を踏襲した。

参考文献 Abstract
 
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