飯玉とは何か?

I 阿弥大寺本郷遺跡の発掘調査

1 調査の経緯

 阿弥大寺本郷(あみだいじほんごう)遺跡は、群馬県伊勢崎市韮塚町から田中町にある埋蔵文化財包蔵地であり、平成22〜23年度に財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団が発掘調査を行いました。

 発掘調査は、県道高崎伊勢崎線の道路改築事業により失われる遺跡を事前に調査して、記録するためのものであり、いわゆる行政発掘調査です。著者はこの調査担当者の一人として平成22年度の発掘調査に関わる機会を得ました。

 伊勢崎市の南東部に位置する広瀬川と利根川に挟まれた平野部は、かつて利根川が流れて形成された氾濫原である広瀬川低地が広がります。この地域は完新世特に歴史時代以降に形成された沖積低地上の微高地であることから、現在の利根川左岸の自然堤防地帯を除いて埋蔵文化財包蔵地は希薄な場所でした(第1図)。

 県道高崎伊勢崎線の道路改築事業が計画され、群馬県教育委員会は試掘調査行いました。その結果、この地域の広い範囲に遺跡が発見されたので、開発の前に発掘調査が実施されることとなりました。

2 遺跡の概要

 阿弥大寺本郷遺跡は、利根川を挟んで前橋台地東南部に接する、広瀬川低地の微高地上に位置しています(写真1)。遺跡の標高は60m前後で平坦な台地状の地形です。遺跡の東縁では、崖を境にして広瀬川低地の氾濫原にあたる低地に接しています。

 伊勢崎市南西部は古代の那波郡に属していました。平安時代の承平年間 (931〜938)に源順の撰によって成立した『和名類聚抄』には那波郡の郷名が記されています。現在の韮塚町周辺は、「韮束」にあたるとされています。周辺には中世の那波城跡や堀口町に鎮座する飯玉神社、日光例幣使街道の柴宿などがあり歴史的な環境に恵まれた場所であるといえます。

 平成22年度の阿弥大寺本郷遺跡の発掘調査の概要は、財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団のWeb(2010年11月12月・2011年1月2月3月4月5月6月)や同事業団発行の年報30−平成22年度事業概要(2011)、矢口裕之(2011)を参照してください。

3 発掘調査の成果

(1) 室町時代(15〜16世紀)

 調査地の中央に位置する2区の溝は、検出面での幅が約8m、深さは1.6mの規模があり大きな溝です。溝は北から西、西から東、東から北の三方向に直角に曲がり、一辺が75mの正方形の区画を構成しているものと思われます。(写真2)

 溝で囲まれた範囲には1棟の竪穴建物や井戸と推定される土坑が検出されました。竪穴建物は、6×4mの方形で、壁際には複数の柱穴が見られました。建物の床は灰色のシルトを貼って作られており、床の堀り方はとても深く掘られていました(写真3)。今までに群馬県内では中世の竪穴建物が複数見つかっていますが、この時期のものとしては比較的規模の大きなものです。

 方形区画の南には掘立柱建物が1棟、検出されました。規模は2間×3間(4×4.6m)の総柱建物であり、庇のような構造を呈する柱穴列を伴います。周辺からはこれらの遺構と同じ時期に属すると思われる土坑や柱穴が約600基ほど検出されました。

 土坑や溝からは15世紀から16世紀のかわらけ、土製内耳鍋、すり鉢、青磁などの輸入陶磁器片、石臼や茶臼、五輪塔、板碑の破片などが多数出土しています。

 検出されたこれらの遺構群は、室町時代の館の一部であると思われます。区画の規模から考えて、この地域の有力な領主の館跡であると思われます。

 調査地西部の4区の大きな溝からは、河川の円礫や砂礫に混じって五輪塔や板碑の破片が出土しました。緑色片岩の板碑片には延文2年(1357年)の文字が刻まれたものが出土しています。この溝は、調査地の西縁に流れる「くるま川」に沿うように掘削されており、中世の用水路の一部である可能性が高いです。

(2)奈良〜平安時代(9世紀〜12世紀)

 4区と3区の西側にかけて奈良時代から平安時代(9世紀)の竪穴住居跡を16軒ほど発掘しました。竪穴住居は東側に竈や貯蔵穴が存在するものが多いです。

 また井戸と思われる土坑1基を検出しました。円形の土坑は、底に方形の木枠を組んでいます。その上部は壁に沿いながら方形に河川礫を丁寧に積み上げています。井戸の底から高台の付いた須恵器の坏が出土しており平安時代のものであると考えられます。

 4区では、掘立柱建物3棟を検出しました(写真4)。総柱の建物は2棟で、北側の建物は長方形の3間×3間(5×7.5m)の大きさです。東側の建物は方形の3間×3間(4×5m)の大きさです。また南側には2間×4間(3.2×9m)の側柱の長方形建物が一棟みられました。

 遺構外からは集落から廃棄された多くの土器片が出土しました。その中には黒色の蛇紋岩を磨いた石製巡方や須恵器製の円面硯が出土しました。このような当時の役人が身につけた装身具の一部や文字を書くための道具が出土したことや数軒に及ぶ掘立柱建物の存在などは、この遺構群が古代集落の官衙的な要素を示す遺構であることを示唆します。

 『和名類聚抄』には那波郡韮塚の郷名が見られます。今回の調査ではこの地域の拠点となる中心地の一部を発掘した可能性が高いものと思われます。

 3区の東側では、浅間Bテフラで埋没した畠跡(V期畠(注1))が発掘されました。火山灰によって保存された畠の畝は、かなり起伏に乏しいですが、連続した畝の状態が明らかです。

 遺跡周辺の前橋台地では、平安時代(西暦1108年)の浅間山の噴火によるテフラで埋没した水田跡が各地で発見されています。また、火山灰の降下後に耕作により残された畠跡(畝間の溝などの耕作痕群)、水路と思われる溝などの検出例が多いです。

(3)古墳時代後期(5世紀末から6世紀)

 調査地のほぼ全域から古墳時代後期(5世紀末から6世紀)の3時期にあたる良好な畠遺構を検出しました。

 畠の時期は、下位より榛名二ッ岳渋川テフラ(Hr-FA)で埋没した5世紀末の畠(II期畠)。それを復旧し、榛名二ッ岳伊香保テフラ(Hr-FP)のラハール(火山で発生する洪水堆積物)で埋没した6世紀中頃の畠(III期畠)(第2図)。およびそれ以降の古墳時代の畠(IV期畠・耕作痕群)です。

 II期畠は、5区で見られました。この調査区では渋川テフラで埋没した畠が良好に保存されており、復旧されませんでした。畠の畝は渋川テフラの細粒火山灰で覆われ、暗灰色土壌の薄層を挟んで厚い洪水砂からなるラハールに覆われました。

 III期畠は、2区で検出されました(写真5、6)。渋川テフラで埋没した畝から火山灰を畝間にかき寄せ、耕作土の天地返しを行った復旧畠が検出されました(復旧タイプ1)。この畠の復旧は正確に畝間と畝をずらして作り直した畠です。

 4区から2区の広い範囲で見つかったIII期畠は、渋川テフラで埋没した畝の耕作土と火山灰を混ぜ込んで、畝を再び作り直したものです(復旧タイプ2)。この畠の復旧は畝間と畝の位置を踏襲した畠です。

 IV期畠は、3区と1区で見られました。畠を埋没させたラハールに新たに作られた畠群であり、畝間の溝が耕作痕群として保存されています。

 これらの畠の一部では、土壌に含まれる微化石の自然科学分析によって詳しい作物の復原が進められています。現在までにイネやオオムギ、コムギの植物珪酸体が検出されています。今後に予定されている発掘調査の整理作業はこの遺跡の古代の畠での穀物生産の風景を考古学的な考察と併せて総合的に検討していきたいと思います。

(4)古墳時代中期(5世紀後半)

 4区から2区にかけての広い範囲で5世紀後半の竪穴住居跡が検出されました。

 集落は4世紀後半から5世紀前半の利根川起源の洪水堆積物で形成された微高地に作られました。一辺が10mを超える大型の竪穴住居も見られ、検出面から床までの深さが1mに及ぶものがあります。

 竪穴住居の竈は、袖が長く灰色の粘土で構築され丁寧に作られています(写真7)。また支脚には土器を転用した例もあり、周囲には灰や焼土などが良好に残されています。

 また竈の右側には貯蔵穴が見られ、床からは保存状態のよい坏や壺、甕などの土器が出土しました。また5世紀後半の須恵器の壺が出土した大型の住居もみられました。掘立柱建物は2棟を検出し1間×2間(3.3×5m)の大きさでした。

 4区や3区では竪穴住居よりも古い畠跡(I期畠・耕作痕群)が見つかりました。この畠は洪水起源の砂を耕作したためか、黒色の土壌が薄い耕作土です。

(5)古墳時代前期(3世紀末から4世紀)

 2区から1区にかけての広い範囲で古墳時代前期から中期の竪穴住居跡が50数軒ほど検出され、現在も発掘調査は継続しています。(写真8)

 集落は利根川起源の洪水堆積物や河川堆積物で形成された微高地に作られています。竪穴住居は大・小さまざまな規模の住居が見られます。住居には炉が残され、また古墳時代以降の河川の浸食で床まで浸食を受けたものがあります。

 4区と3区からは浅間Cテフラ混じりの土壌から水田の痕跡が見つかりました(写真9)。水田の区画は一辺が3〜4mあまりの小形の水田区画です。同時期の水路と思われる溝も見つかりました。

 3世紀末の竪穴住居群からは、S字状口縁台付甕や小型丸底壺、器台、縄目のつけられた土師器の甕、南関東の影響を受けた単口縁の甕、北陸地方の影響を受けた土師器などが出土しました。

 様々な地域の影響を受けた土器の出土は、この時期の土器文化の交流の一端が垣間みられる事例となりそうです。

4.土地利用の変遷

 阿弥大寺本郷遺跡の周囲は、広瀬川低地を流れる古利根川と現在の利根川の流路に存在した榛名山麓からの河川に近く、河川の洪水と戦いながら地域開発が進められました。

 特にこの地域の集落に大きな影響をもたらしたのは、5世紀代の利根川の洪水と6世紀中頃の榛名火山、伊香保噴火の影響です(第3図)。

 今回の発掘調査により明らかになった阿弥大寺本郷遺跡の変遷史は以下のとおりです。

(1)集落の形成

 古墳時代前期3世紀末に古利根川沿いの自然堤防上に位置する微高地に水田と集落が作られました。河川に近い東側の低地は開発されませんでした。微高地の狭い範囲に竪穴住居が数世代にわたり作られました。

(2)利根川の氾濫

 古墳時代5世紀前半に古利根川が氾濫し集落や水田が洪水堆積物に覆われました。古墳時代5世紀後半の竪穴住居は、古墳時代前期の水田の上位に洪水堆積物を挟んで作られました。竪穴住居は洪水堆積物に見られる畠の畝と考えられる耕作痕群を切って掘られているので、洪水堆積物が水田を覆った後は、水田が畠に変化しました。

 この遺跡では古墳時代前期から中期に洪水を受けた生産域が水田から畠への転換がなされ、生産域の一部が集落になったことがわかりました。

(3)榛名二ッ岳形成期前

 榛名火山が古墳時代に噴火した時期を二ッ岳形成期と呼びます。この噴火が起こる前の5世紀末には調査地の全域から竪穴住居がなくなり、畠が遺跡の全面的に広がります。おそらく人口が増えたために集落が移転して、食糧を確保するため農地が再開発されたのでしょう。

 群馬県内では古墳時代に同じような事例が利根川上流の渋川市の有馬遺跡で明らかになっています(能登2002)。

 この時期までに遺跡全体では約50軒前後の竪穴住居が発掘されています。3世紀の末からこの時期までは約180年間です。1軒の竪穴住居を約30年で建て替えると、この間に6世代の変遷が想定できます。この集落では発掘された範囲において8軒前後の住居が継続したと考えることができます。

(4)榛名二ッ岳渋川噴火

 5世紀末の榛名火山二ッ岳の渋川噴火は、プレー式の火砕流堆積物を伴う火山活動でした。火山から遠い阿弥大寺本郷遺跡でも畠の畝が降下した火山灰に覆われました。5区で畠の上に見られた火山灰の厚さは3〜4cm程度でした。

 2区から4区では火山灰で埋まった畠がその後、耕作された状態が確認できました。耕作は2種類の形態が確認されました。同じような事例が高崎市の下芝清水遺跡などでも確認されています。

 復旧タイプ1と呼んだ畠は、耕作土の天地返しを行い、畝間が水平に移動しています。厳密には、このような耕作が火山灰を除去するための復旧作業なのか連作障害を防止するための単なる畝替えなのかは、まだ検討が必要です。

 この畠の土壌下部を精査してみました。畠の畝間にあたる谷下には深い耕作痕が見られました。この観察を評価すれば畠の畝は少なくとも複数のシーズンは使用し続けているように思えます。

 また近接する畠地のなかで2種類の耕作方法があったことはどのように考えるべきでしょうか。

 古代社会のムラは共同体としてムラごとに耕作が進められ、共同の倉庫を利用とていたと考えられています。これは古代の集落遺跡には竪穴住居ごと掘立柱建物の倉庫が見られないことから考えだされました。こうしたことから耕作方法の差は、耕作者(世帯)の違いとは考えにくいです。

 それではこれらは栽培された作物の差ではないでしょうか?これも発掘された畠の畝の構造や規模が類似しているため一概に言えないです。

 発掘された古墳時代の畠は、復旧なのか?単なる耕作の繰り返しなのか。また耕作方法の違いは何か?課題は多いのですが今後の検討を待ちたいと思います。

 6世紀前半の榛名二ッ岳伊香保噴火は、大量の軽石の噴出を伴うプリニー式噴火で、火口の周辺には大量の軽石流堆積物を噴出しました。これらは当時の利根川をラハールとなって流れ下り、伊勢崎市周辺の広瀬川低地にも大量の火山噴出物をもたらしました。2区からはラハールにより埋没した畠が良好に検出されました。

(5)古代集落の立地

 3区から4区の微高地に古代集落が形成され、周辺には水路などが掘られました。この時期の生産域は明瞭なものが見つかっていませんが、用排水路の開削や集落が最も標高の高い微高地にあることから水田開発が進められたものと考えられます。

 しかし、3区で発見された浅間Bテフラ下面の旧地表からは畠の畝間が見つかっており水田や畠が併用された時期であるとも考えられます。

(6)中世の開発

 4区に大きな水路が掘削され、2区からは方形区画の館跡が検出されました。前橋台地を含めた水田開発や用排水路が整備されたのがこの時期であると考えられ、このような開発のにない手は古代末に在地領主として開発を進めて当地に定着した那波氏と呼ばれる氏族であると思われます。利根川水系を基盤とした那波郡一体に力を蓄えた武士団は、中世の利根川の変遷を経験しながら用水開発を進めたに違いありません。

5.災害と遺跡

 5世紀の河川災害によって利根川沿いにあったこの地域の農業生産は、水田から畠を中心とした耕作地に変換した可能性が考えられます。群馬県では5世紀後半に極小区画水田が現れ、弥生時代後期から古墳時代中期前半までの小区画水田とは異なる耕作方法が現れます。渋川市の有馬遺跡や高崎市西部の下芝遺跡群でも5世紀末の畠遺構が調査地の広範囲に展開していることから、この時期が台地の水田開発、扇状地や河川の氾濫原の畠作転換など農耕開発の画期であったこと類推されます。

 また、この地域や有馬遺跡などでは畠を中心とする耕作は平安時代まで継続して、中世の用水開発の時期まで継続されていたかもしれません。

 特筆されるのは、この地域の景色が一変してしまった榛名二ッ岳の伊香保噴火による河川災害です。榛名山の火山噴出物が降雨によって押し出し、土砂で埋められた利根川からあふれた多量の土砂が大洪水を起こしました。おそらく、5世紀末の渋川噴火の影響で当時の利根川の河床は火山噴出物で高まっていたに違いありません。

 二度にわたる榛名火山の噴火によって火山から離れた伊勢崎の大地は、洪水によって一気に飲み込んでしまいました。これは火山噴火による大河川の下流地域の特異な自然災害といえるかもしれません。

 利根川が引き起こした大洪水を受け、おそらく一夏のうちに2mもの土砂が集落を押し流し、畠を埋めてしまったことでしょう。当時の人々はこのような大災害に打つ手もなく、科学も発達していなかった当時は、このような大自然の猛威に天の意志や神の力を感じたものと思われます。

第1図 遺跡の位置(1/25000地形図「伊勢崎」図幅を使用)

1阿弥陀寺本郷遺跡 2西本郷 3下ノ前 4真光寺古墳群 5一号堰 6城内 7戸谷塚 8今井 9柴 10宮柴前 11宮柴 12東上之宮 13飯玉神社(堀口) 14飯玉神社 15火雷神社 16倭文神社

写真1 空からみた遺跡
(写真1〜10は、財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団所蔵)

写真2 室町時代の館跡 白線が推定される館跡(2区)

写真3 室町時代の竪穴建物(西から撮影)

写真4 奈良から平安時代の建物群(4区)

第2図 古墳時代後期の畠の断面と耕作の復元

(注1)畠の名称と層位・時期

V期畠 浅間Bテフラ下・西暦1108年に埋没
IV期畠 伊香保ラハール上位の畠・古墳時代後期〜平安時代
III期畠 伊香保ラハール埋没・古墳時代後期(6世紀前半)
II期畠 渋川テフラ埋没・古墳時代後期(5世紀末)
I期畠 利根川の洪水堆積物上位の畠・古墳時代中期(5世紀)

写真5 古墳時代後期のラハールで埋没した畠(III期畠)

写真6 古墳時代後期の渋川テフラで埋没した畠(II期畠)

写真7 古墳時代中期の竪穴住居の竈

写真8 古墳時代前期の集落(1区)

写真9 古墳時代前期の水田跡(4区)

第3図 阿弥大寺本郷遺跡の地形と遺構概念図
ピンク色の凡例が榛名山の伊香保噴火に伴うラハールで、集落や畠を約2mの厚さで覆っているのがわかる。

 本文は、群馬県地域文化研究協議会 発行(平成23年4月30日)の「群馬文化」No.306 31ー38頁に掲載されたものを書き加えたものです。写真については財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団所蔵の写真を許可を得て掲載しました。
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