文化財レポート 広瀬川低地・韮川右岸から見つかった遺跡
伊勢崎市阿弥大寺本郷遺跡の発掘調査 矢口裕之

 阿弥大寺本郷(あみだいじほんごう)遺跡の発掘調査は、県道高崎伊勢崎線の道路改築に伴う事前調査として、伊勢崎市韮塚町から田中町で行いました。

 伊勢崎市の南東部、広瀬川と利根川の間は、古利根川により形成された広瀬川低地が広がります。この地域は歴史時代に形成された沖積低地であることから、利根川左岸の自然堤防を除いて埋蔵文化財包蔵地は希薄な場所でした(第1図)。

 今回、群馬県教育委員会文化財保護課の試掘調査により、広い範囲に遺跡が発見され、財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団によって発掘調査を実施しました。

遺跡の概要

 遺跡は、利根川を挟んで前橋台地東南部に接する、広瀬川低地の微高地上に位置します(写真1)。発掘地の標高は六十メートル弱で平坦な台地です。遺跡の東縁では、段丘崖を境にして広瀬川低地内の氾濫原にあたる低地に接しています。

 遺跡周囲には真光寺古墳群や西本郷遺跡がみられます。韮塚町の地名は、和名抄に名前が残る古代那波郡の郷名であるとされています。周辺には那波城跡や堀口町に鎮座する飯玉神社、日光例幣使街道の柴宿などがあり歴史的な環境に富んでいる場所です。

 発掘調査は約15000平米の調査地を複数の調査区にわけて平成22年11月から調査を開始し、平成23年の夏までに調査を終了する予定です。

 以下に昨年度の発掘調査に基づいて遺跡の時代ごとに成果の概要を述べます。

室町時代(15世紀から16世紀)

 調査地の中央に位置する2区の溝は、検出面での幅が約8メートル、深さは1.6mの規模であり大きな溝です。溝は東西南北の方向に一辺が75mの正方形の区画を構成しているものと思われます。(写真5)

 溝で囲まれた範囲には1棟の竪穴建物や井戸と思われる大型の土坑が検出されました。

 竪穴建物は、6×4メートルの方形で、壁際に複数の柱穴が見られます。床は灰色のシルトを貼って作られており、堀方はとても深く掘られていました(写真2)。この時期の竪穴建物としては比較的大きなものです。

 溝の南には掘立柱建物が1棟、検出されました。規模は2間×3間(4×4.6m)の総柱建物であり、庇のような構造を呈する柱穴を伴います。これらの遺構と同じ時期に属すると思われる土坑や柱穴は約600ほど検出されています。

 土坑や溝からは15世紀から16世紀のかわらけ、内耳鍋、青磁などの輸入陶磁器片、石臼や茶臼、すり鉢、五輪塔、板碑の破片などが多数出土しました。

 検出された遺構群は、室町時代の館の一部であると思われます。区画の規模から考えて、この地域の有力な領主の館跡であると思われます。

 調査地西部の4区の大きな溝からは、河川の円礫や砂礫に混じって五輪塔や板碑の破片が出土しました。緑色片岩の板碑片には延文二年(1357年)の文字が刻まれたものが出土しています。

奈良〜平安時代(9世紀〜12世紀)

 4区と3区の西側にかけて奈良時代から平安時代(9世紀)の竪穴住居跡を16軒、発掘しました。竪穴住居は東側に竈や貯蔵穴が存在するものが多いです。

 井戸と思われる土坑1基を検出しました。円形の土坑は、底に方形の木枠を組んでいます。その上部は壁に沿いながら方形に河川礫を丁寧に積み上げています。井戸の底から高台の付いた須恵器の坏が出土しており平安時代のものであると考えられます。

 四区では、掘立柱建物三棟を検出しました(写真6)。総柱の建物は2棟で、北側の建物は長方形の3間×3間(5×5.7m)の大きさです。東側の建物は方形の3間×3間(4.5m)の大きさです。また南側には2間×4間(3.2×9m)の側柱の長方形建物が1棟みられました。

 遺構外からは集落から廃棄された多くの土器片が出土しました。その中には黒色の蛇紋岩を磨いた石製巡方や須恵器製の円面硯が出土しました。このような遺物の出土や掘立柱建物の存在などは、この集落の官衙的な要素を示しているものと思われます。

 和名称には那波郡韮塚の郷名が見られます。今回の調査ではこの地域の拠点となる中心地の一部を発掘した可能性が高いものと思われます。

 3区の東側では、浅間Bテフラで埋没した畠跡(?期畠)が発掘されました。火山灰によって保存された畠の畝は、かなり起伏に乏しいですが、連続した畝の状態が明らかです。

 遺跡周辺の前橋台地では、平安時代(西暦1108年)の浅間山の噴火によるテフラで埋没した水田跡が各地で発見されています。また、火山灰の降下後に耕作により残された畠跡(畝間の溝などの耕作痕群)、水路と思われる溝などの検出例が多いです。

古墳時代後期(5世紀末から6世紀)

 調査地のほぼ全域から古墳時代後期(5世紀末から6世紀)の3時期にあたる良好な畠遺構を検出しました。

 畠の時期は、下位より榛名二ッ岳渋川テフラで埋没した5世紀末の畠(?期畠)。それを復旧し、榛名二ッ岳伊香保テフラのラハール(火山で発生する洪水堆積物)で埋没した6世紀中頃の畠(III期畠)(図2)。およびそれ以降の古墳時代の畠(IV期畠・耕作痕群)です。

 II期畠は、5区で見られました。この調査区では渋川テフラで埋没した畠が良好に保存されており、復旧されませんでした。畠の畝は渋川テフラの細粒火山灰で覆われ、暗灰色土壌の薄層を挟んで厚い洪水砂からなるラハールに覆われました。

 III期畠は、2区で検出されました(写真3)。渋川テフラで埋没した畝から火山灰を畝間にかき寄せ、耕作土の天地返しを行った復旧畠が検出されました(復旧タイプ1)。この畠の復旧は正確に畝間と畝をずらして作り直した畠です。

 4区から2区の広い範囲で見つかったIII期畠は、渋川テフラで埋没した畝の耕作土と火山灰を混ぜ込んで、畝を再び作り直したものです(復旧タイプ2)。この畠の復旧は畝間と畝の位置を踏襲した畠です。

 IV期畠は、3区と1区で見られました。畠を埋没させたラハールに新たに作られた畠群であり、畝間の溝が耕作痕群として保存されています。

 これらの畠の一部では、自然科学分析によって詳しい作物の復原が進められています。イネやムギの植物珪酸体が検出されており、古代の畠での穀物生産の風景を今後慎重に検討していきたいと思います。

古墳時代中期(5世紀後半)

 4区から2区にかけての広い範囲で五世紀後半の竪穴住居跡が十数軒ほど検出され、現在も発掘調査中です。

 集落は4世紀後半から5世紀前半の利根川起源の洪水堆積物で形成された微高地に作られました。一辺が10mを超える大型の竪穴住居も見られ、検出面から床までの深さが1mに及ぶものがあります。

 竪穴住居の竈は、袖が長く灰色の粘土で構築され丁寧に作られています(写真4)。また支脚には土器を転用した例もあり、周囲には灰や焼土などが良好に残されています。

 また竈の右側には貯蔵穴が見られ、床からは保存状態のよい坏や壺、甕などの土器が出土しました。また5世紀後半の須恵器の壺が出土した大型の住居もみられました。掘立柱建物は2棟を検出し1間×2間(3.3×5m)の大きさでした。

 4区や3区では竪穴住居よりも古い畠跡(I期畠・耕作痕群)が見つかりました。この畠は洪水起源の砂を耕作したためか、黒色の土壌が薄い耕作土です。

古墳時代前期(3世紀末から4世紀)

 2区から1区にかけての広い範囲で古墳時代前期から中期の竪穴住居跡が五十数軒ほど検出され、現在も発掘調査は継続しています。(写真7)

 集落は利根川起源の洪水堆積物や河川堆積物で形成された微高地に作られています。竪穴住居は大・小さまざまな規模の住居が見られます。住居には炉が残され、また古墳時代以降の河川の浸食で床まで浸食を受けたものがあります。

 4区と3区からは浅間Cテフラ混じりの土壌から水田の痕跡が見つかりました(写真8)。水田の区画は一辺が3〜4mあまりの小形の水田区画です。同時期の水路と思われる溝も見つかりました。

 3世紀末の竪穴住居群からは、S字状口縁台付甕や小型丸底壺、器台、縄目のつけられた土師器の甕、南関東の影響を受けた単口縁の甕、北陸地方の影響を受けた土師器などが出土しました。様々な地域の影響を受けた土器の出土は、この時期の土器文化の交流の一端が垣間みられる事例となりそうです。

災害と土地利用の変遷

 阿弥大寺本郷遺跡の周囲は、広瀬川低地を流れる古利根川と現在の利根川の流路に存在した榛名山麓からの河川に近く、河川の洪水と戦いながら地域開発が進められました。

 特にこの地域の集落に大きな影響をもたらしたのは、5世紀代の利根川の洪水と6世紀中頃の榛名火山、伊香保噴火の影響でしょう。(図3)

 者の災害によってこの地域の農耕は、水田から畠を中心とした耕作地に変換した可能性があります。これは、6世紀の畠遺構が調査地の広範囲に展開していることから類推されます。また、畠を中心とする耕作は平安時代まで継続して、中世の用水開発の時期まで継続されていたかもしれません。

 特筆されるのは、この地域の景観が一変してしまった後者の噴火による河川災害です。榛名山の火山噴出物が降雨によって押し出し、土砂で埋められた河川からあふれた多量の土砂が大洪水を起こしました。山から離れた伊勢崎の大地は、洪水によって一気に飲み込んでしまいました。これは火山噴火による大河川の下流地域の特異な自然災害といえるかもしれません。

 今年3月に発生した平成23年東北地方太平洋沖地震では、大規模な津波によって一瞬にして都市が破壊されてしまいました。古墳時代の伊勢崎市南西部も三陸の街と同様に過去に悲劇が起きた場所であることは明らかです。

 利根川が引き起こした大洪水を受け、おそらく一夏のうちに2mもの土砂が集落を押し流し、畠を埋めてしまったことでしょう。当時の人々は自然の猛威に神意を感じたものと思います。

 大自然の営みの中で人々は、暮らしを続けるために助け合い、再び集落はよみがえりました。我々の祖先がこの地で畠作を続けることによって、現在の風景が保たれたのです。

 私たちは遺跡から学ぶことで地域の歴史や災害そして集落の復興を知り、失われた過去から未来の暮らしを改良していくことが可能です。

 身近な遺跡の中で、古墳時代の「がんばろう」の声を聞いた気がする、今年3月の発掘調査は生涯忘れることはないでしょう。

第1図 遺跡の位置(1/25000地形図「伊勢崎」図幅を使用)

1阿弥陀寺本郷遺跡 2西本郷 3下ノ前 4真光寺古墳群 5一号堰 6城内 7戸谷塚 8今井 9柴 10宮柴前 11宮柴 12東上之宮 13飯玉神社(堀口) 14飯玉神社 15火雷神社 16倭文神社

写真1 空からみた遺跡

写真5 室町時代の館跡 白線が推定される館跡(2区)

写真2 室町時代の竪穴建物

写真6 奈良から平安時代の建物群(4区)

第2図 古墳時代後期の畠の復旧

写真3 古墳時代後期の洪水で埋没した畠

写真4 古墳時代中期の竪穴住居の竈

写真7 古墳時代前期の集落(1区)

写真8 古墳時代前期の水田跡(4区)

第3図 阿弥大寺本郷遺跡の地形と遺構概念図

 本文は、群馬県地域文化研究協議会 発行(平成23年4月30日)の「群馬文化」No.306 31ー38頁を許可を得て転載しました。
 また、写真については財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団所蔵の写真を許可を得て掲載しました。

 

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