古墳時代の災害と伝承
伊勢崎市阿弥大寺本郷遺跡

阿弥大寺本郷遺跡

伊勢崎市の韮塚町から阿弥大寺町に広がる韮川沿いの台地で、平成二十二年度に阿弥大寺本郷遺跡の発掘調査が行われました。

 遺跡からは古墳時代初頭から平安時代の約百棟に及ぶ竪穴住居や掘立柱建物、古墳時代の水田や畠、室町時代の館跡などが見つかりました。

 従来から遺跡の密度が低いと思われていた伊勢崎市南西部において、古墳時代前期から中期の集落が発見されたのです。

 当地に集落が誕生したのは三世紀末頃で、竪穴住居がつくられ、水田が営まれました。しかし、五世紀頃の数度にわたる利根川の洪水で水田は埋没し、畠に変わっていきました。

 五世紀後半の集落や畠は、埋没した水田の上に重なって作られました。やがて五世紀末頃に集落は移転し、広範囲に畠が作られました。畠の土壌からはイネやオオムギ、コムギの植物珪酸体が見つかっています。畠は穀物生産が主だったのかも知れません。

 これらの畠は土石流によって運ばれた土砂で再び埋没しました(写真1)。この災害は古墳時代におこった榛名山二ッ岳の噴火によるもので、土砂は火山灰や軽石が利根川を流れくだったものです。遺跡周辺の谷では約三メートル、台地上でも二メートルの砂が堆積しています(写真2)。

 おそらく、初夏から秋の雨が多い季節に利根川が大氾濫を起こして、伊勢崎南東部の平野を一瞬のうちに飲み込んでしまったのでしょう。当時の利根川は現在の韮川と広瀬川の中間を流れていました。

古墳時代の榛名山の噴火

 榛名山は群馬県の中央に位置する成層火山です。古墳時代に数回の噴火がおきました。

 五世紀に榛名有馬テフラの噴火があり、軽石が東麓に降りました。この噴火で榛名山は休止期から活動期に入ったようです。

 五世紀末の二ッ岳渋川テフラの噴火は、火山灰の黒雲を成層圏に吹き上げる噴火が幕開けでした。山麓にアズキ色の厚い火山灰が降りました。火山灰には泥雨の痕跡が残されています。

 やがて火口には溶岩ドームが現れ、山麓の広範囲に数度にわたって火砕流が流れました。噴煙で上がった火山灰は、群馬県南東部の平野にも降灰しました。

 噴火が終わって三十年がたつと火口から再び大噴火がはじまりました。

 六世紀前半の噴火は、二ッ岳伊香保テフラの噴火です。噴火では山麓の沼尾川や榛名白川に軽石流と呼ばれる火砕流が流れました。噴火は大規模な噴煙に移り変わり大量の軽石が北東方向に降りました。

 渋川市北部から昭和村にみられる軽石はこのときの噴火によるもので、火山灰は遠く東北地方の仙台沖で発見されています。

 火口は軽石を噴出したあとで溶岩ドームを形成しました。粘性の高い溶岩が塊になって山になり、文字どおり「二ッ岳」が新たに伊香保の嶺に誕生したのです。

 この噴火で生まれた大量の火山灰や軽石は、山麓の谷や河川を埋めました。大雨や台風の季節にはこれらの噴出物が土石流となって利根川に運ばれました。噴火が終わって新たな土砂災害の繰り返しが始まるのです。

 前橋市元総社町の元総社北川遺跡では、牛池川の谷が四メートルの土砂で埋没したことがわかりました(写真3)。

 土石流は染谷川沿いでも見つかっており、榛名山の南東麓の広範囲が土石流の堆積によって被災したことがわかります。

 また、現在の利根川の流路を流れていた八幡川も水源が榛名山南東麓にあるため、たくさんの土砂が流れて下流で氾濫をおこしました。

 高崎市宿横手町の宿横手三波川遺跡では二ッ岳の噴火による土石流が見つかり、地形を復元すると過去の谷地形が復元できました。

 このような土砂災害は榛名山麓の吾妻川、利根川、烏川でもおこりました。

神道集と二ッ岳の噴火

 『神道集』は室町時代に成立した物語で県内の神社の縁起が神仏習合の立場で書かれています。しかし、その内容は荒唐無稽な物語のため歴史を記録した話とは誰も考えませんでした。

 『上野第三宮伊香保大明神事』は、圧政で人民を苦しめた国司が伊香保明神の神罰を受けるという話です。

(以下は、物語のあらすじ)

 国司の夢に伊香保沼が現れて、その後に伊香保沼が移動して、窪地ができた。

 伊香保の大嶽の方から一塊の黒雲が立ち登り、一陣の旋風が吹き下ろした。すると車軸のような豪雨が激しく降って、あたり一面が真っ暗闇の中に迷い込んでしまった。国司達は行方不明となり、家中は大騒ぎとなった。

 これは伊香保大明神が伊香保の頂上から山の神を遣わして主従二人を捕らえたのである。伊香保沼の東方の窪地、沼平というところに小山がある、その上に山の神達に石楼を造らせて国司達を追い込んだ。石楼には焦熱地獄の猛火が燃え移って燃えさかる地獄となった。国司達は、長い年月にわたって石楼の中の猛火にあって悲しんでいることだろう。

 この山は山の神達が大きな石を積み重ねて楼に造った山であるから石楼山ともいう。

(神道集より)

 故尾崎喜左雄氏は、神道集の伊香保明神の話は榛名山の二ッ岳の爆裂火口を想像したのではないかと述べています(尾崎 1966)。

 また、火山灰考古学研究所の早田勉氏は神道集には創作の部分が多いといわれるが、マグマ上昇の地殻変動、溶岩ドームの成長、噴火による軽石の堆積、火砕流の発生、湿った火山灰あるいは軽石の降灰、温泉の出現などの噴火に関係する現象が物語の中で描写されているようにみえると指摘し、古墳時代に起こった榛名火山の噴火が後世まで語り継がれた可能性を述べています(早田 1995・2006)。

 そして『神道集』の中には同じ時代の話として、もう一つの話が存在します。

 それは『上野国那波八郎大明神事』であり、榛名山麓の群馬郡と那波郡が舞台になっています。

(以下は、物語のあらすじ)

 群馬郡の地頭の息子である八郎は兄たちに妬まれ殺されます。死体は石の唐櫃に入れて高井郷の鳥食池から東南にある蛇食池の中島にある蛇塚の岩屋という岩の中深く投げ込まれました。

 殺された八郎は、竜神から竜水の智徳を得て鳥食池の大蛇とも良い仲になりその身は大蛇の姿に変身した。

 その後は、神通力を身につけて七人の兄たちを責めて命を奪ったが、その一族や妻子眷属まで生贄にとって殺してしまい、その子孫を皆殺しにした。

さらに上野国中の人を皆殺しにしてしまうので、国内の嘆きは大変なものだった。

 上野国では、毎年九月に高井の岩屋に大蛇の餌を献ずることになった。こうして二十年余りもこのような事が続けられた。

 その頃、奥州に使いとして宮内判官宗光が尾幡の屋敷に立ち寄った。

 尾幡姫が生贄となる9月が近づいたが、これを聞いた宗光は、嘆き悲しんだが尾幡姫の身代わりとなって大蛇に立ち向かうことを決意した。

 高井の岩屋に到着した宗光は、贄棚に登って法華経を読み上げた。宗光の法華経が終わると大蛇は、法華経の功徳で私は神の形を受け、上野国に留まってこの世の人々に利益を施すことにしましょうと告げた。

 宗光が尾幡の屋敷に戻ると、その夜に雷鳴震動して大雨が降り、大蛇は那波郡に下りて下村という所で神として現れた。これが八郎大明神である。

(神道集より)

 この話に登場する那波八郎は、蛇体として人々に災いをもたらし、その後人々は、毎年の秋に生贄を捧げて災厄を防いだという話です。

 この話に出てくる「蛇食池」と「高井の岩屋」は、伊香保明神の「伊香保沼」や「石楼山」を連想させますから、何らかの共通性を暗示させる鍵言葉なのでしょう。

 伊香保大明神の話が古墳時代の二ッ岳の噴火を伝えた話であれば、那波八郎の説話は、噴火災害やその後の土砂災害を物語として人々に語り伝えた伝承ではないでしょうか。

 この話の群馬郡高井郷は前橋市の牛池川遺跡群に近く、当時の利根川と山麓の末端が土石流によって被災した場所です。そして八郎が神として現れる場所は、那波郡の南に位置する伊勢崎市南西部、ちょうど阿弥大寺本郷遺跡の周辺なのです。(図1)

 また、神道集の話は近世になって在地縁起という地域ごとの個別の物語に再編されます。前橋市総社町には『高井岩屋縁起』が成立し、この話の中で宮内宗光が供養のために贄棚の場所に阿弥陀寺を建立する話が生まれます。

 地元の皆さんの話では、伊勢崎市阿弥大寺町の地名のもとは阿弥陀寺だということですから、阿弥大寺と高井は、二ッ岳の噴火災害や那波八郎の伝説地として共通性がありそうです。

 また、阿弥大寺町には薬王神社と薬王寺という地名が存在しており、これは那波八郎の本地仏が薬王菩薩であることから近世になって「高井岩屋縁起」などの成立に関わって生まれたものと想像できます。

 高崎の倉賀野神社に残された「飯玉縁起」では八郎が飯玉大明神になる話に変化しています。飯玉神社の総本社が阿弥大寺本郷遺跡に近い場所にあり、その分布が災害を受けた場所に多いのも何か関係がありそうです。

 神道集は地域に語り継がれた伝説や伝承をもとに創作された物語と考えられているので、古墳時代におきた大災害が上野国中の人々の心に残り、語り継がれてきた可能性があるのです。

 考古学を柱にした発掘調査は、歴史解明を目的に行われています。しかし、地層の中には過去の火山噴火や大地震、津波などの災害の歴史が刻まれた遺産が残されています。

 私たちの暮らしに直結する未来の災害を予測し、被害を少なくする減災の取り組みが始まり、発掘調査はこれに欠かせない仕事でもあるのです。

 発掘調査を手段にした埋蔵文化財の研究は、自然科学や災害史、文献史学、地域の伝承を探求する民俗学や地域文学なども視野にいれて、古代の真の姿を復元する試みが進められているのです。

尾崎喜左雄(1966)横穴式古墳の研究 吉川弘文館

早田勉(1995)講座文明と環境人口・疾病・災害 朝倉書店

早田勉(2006)はるな30年物語 かみつけの里博物館

写真1 阿弥大寺本郷遺跡で発掘された古墳時代の畠
(公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団から提供)

畝間からは植物片などの炭化物が多く見つかっている。灰や炭化物などを畝間にまいて肥料としたのだろうか。

写真2 阿弥大寺本郷遺跡の谷や台地を埋めた土石流
(公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団から提供)

谷の中には火山灰と土石流がかさなって堆積している。

写真3 前橋市元総社北川遺跡の土石流で埋没した地表面
(群馬県埋蔵文化財調査センターから提供)

埋没した古墳時代の水田跡からヒトやコウノトリの足跡が見つかっている。

(図1)二ッ岳の噴火災害と伝承
 本文は群馬出版センター発行(平成24年4月15日)の「季刊 群馬風土記」Vol.109 143ー148頁に掲載されたものを許可を得て転載したものです。写真については財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団及び群馬県埋蔵文化財調査センター所蔵の写真を許可を得て掲載しました。
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