飯玉とは何か? IV 飯玉とは何か? 1. 飯玉神社とその周辺 (1)飯玉神社(伊勢崎市堀口町) 伊勢崎市堀口町に鎮座する飯玉神社は、那波郡の総鎮守であり、韮川右岸の台地にあります(第16図、写真24)。神社がある場所は、中世城館の那波城跡や近世の街道である日光例幣使街道にも近く、古くからの要所ともいうべき場所です。また、阿弥大寺本郷遺跡を流れる用水路(地元の方はクルマ川と呼ぶ)の下流に位置し、遺跡からは至近距離にあります。 江戸時代後期の寛政10年(1798年)に伊勢崎藩家老の関重嶷が著した『伊勢崎風土記』には、 「飯玉神社は寛平元年(889年)に国司の室町中将により創建された。応仁戦国以来は田園が荒蕪したので那波城主が飯玉・飯福99祠を分祀した。名和村の飯玉神社は総本社で、特に堀口城下にあって城主から崇敬された。傍社には八郎祠などがあった。 」と記されています(伊勢崎郷土研究会1936)。 また、近代に書かれた『佐波郡神社誌』には、 「名和村飯玉神社は宇気母智命、大国魂命を主祭神とし、安閑天皇の年間に保食神の神霊を丹波国笹山から迎えて鎮座した。嘉永元年の社殿修理の文書には、社伝に曰く寛平元年国司室町中将が再建したとある。また古老の伝説によれば当社は那波郡従三位國魂明神と言い伝え、中世において飯玉明神と改めた。天武天皇の勅命により毎年十月末の午の日より十一月初めの午の日まで満十二日の間、境内に注連縄を引きまわし人馬の出入りを禁じた那波神事を行った。 」と書かれています(群馬県神職会佐波郡支部1924)。 (2)八郎神社(伊勢崎市福島町) 飯玉神社の南東には福島町に八郎神社があります(写真25)。八郎神社は、神道集の那波八郎を祭神にした小さな神社で、飯玉神社と同様に阿弥大寺本郷遺跡を流れる用水路の下流に位置しています。 『伊勢崎風土記』に書かれた八郎神社の謂われは、神道集の那波八郎の話をベースにしていますが、少し異なる内容になっています。以下は『伊勢崎風土記』の要約です。 八郎が投げ入れられた岩屋があった沼は、小幡にある蛇喰池である。八郎は蛇龍となった。生贄の犠牲を川の上に供えて之を祀り、この川を神龍川や神流川と呼んだ。大風がおこり、石をふき揚げ、雷鳴をとどろかし、沛然として雨ふり注ぎ、樹を抜き、厳を砕き、谿振ひ山動きぬ。やがて神龍は那波郡の下福島村に現れ八郎大明神として祀った。元暦元年(1184年)に祠を改修した(伊勢崎郷土研究会1936)。 (3)上野国八宮火雷神社(佐波郡玉村町下之宮) 飯玉神社の西には利根川を挟んで両岸に、延喜式に記された神社が二社みられます。これらの神社は利根川を挟んで北が上之宮、南が下之宮の地名となっており上下二社が一体の形で祀られたものであると考えられています。これらの古社は、上之宮が倭文(しどり)神社、下之宮が火雷神社です(写真26、27)。 神社の詳しい創建年代は、社伝による以外は不明ですが火雷神社は『日本後紀』の延暦15年(756年)に官社となり、倭文神社は『三代実録』の貞観元年(859年)には官社となりました。当時の利根川は伊勢崎市西部の広瀬川低地を流れていたので、二つの神社は、現在の利根川沿いに流れた榛名山水系の八幡川下流を境界にして上下に区分されたと考えられます。 上野国神社明細帳によれば、火雷神社は、延喜式に記された十二社の一つで佐波郡玉村町芝根町にあり、神社は崇神天皇元年に鎮座し、延暦15年に官社となりました。主祭神は火雷神、保食命、素盞鳴命で那波八郎霊を祭神として祀ります(丑木2007)。 火雷神社も飯玉神社と同様に旧暦の十月に神社境内に注連縄を張って、夜間に行われる特殊神事 「那波神事 」を行っています。この 「那波神事 」は注連縄を張り、結界を作って人を遠ざけ、闇夜に行う特殊な神事なので古代の祭祀の形態をとどめるものと考えられています。また十月に行い別名 「麦捲き御神事 」とも呼ばれることから、冬小麦栽培を前にした余祝祭祀として生まれた可能性が高いと思われます。 佐藤(2007)は、火雷神社の神官和田氏が明治28年(1895年)に書いた『郷社火雷神社調書』を転載しました。これによると那波神事の由来は以下のとおりです。
火雷神社と倭文神社は、延喜式神明帳によれば大和国葛城地方にその名前が見られ、葛下部 葛木倭文坐天羽雷命神社、忍海郡 葛木坐火雷神社二座。とあることから大和の葛城氏に関係が深い神社と考えられています(尾崎1970)(写真28)。