飯玉とは何か?

IV 飯玉とは何か?

1. 飯玉神社とその周辺

(1)飯玉神社(伊勢崎市堀口町)

 伊勢崎市堀口町に鎮座する飯玉神社は、那波郡の総鎮守であり、韮川右岸の台地にあります(第16図、写真24)。神社がある場所は、中世城館の那波城跡や近世の街道である日光例幣使街道にも近く、古くからの要所ともいうべき場所です。また、阿弥大寺本郷遺跡を流れる用水路(地元の方はクルマ川と呼ぶ)の下流に位置し、遺跡からは至近距離にあります。

 江戸時代後期の寛政10年(1798年)に伊勢崎藩家老の関重嶷が著した『伊勢崎風土記』には、「飯玉神社は寛平元年(889年)に国司の室町中将により創建された。応仁戦国以来は田園が荒蕪したので那波城主が飯玉・飯福99祠を分祀した。名和村の飯玉神社は総本社で、特に堀口城下にあって城主から崇敬された。傍社には八郎祠などがあった。」と記されています(伊勢崎郷土研究会1936)。

 また、近代に書かれた『佐波郡神社誌』には、「名和村飯玉神社は宇気母智命、大国魂命を主祭神とし、安閑天皇の年間に保食神の神霊を丹波国笹山から迎えて鎮座した。嘉永元年の社殿修理の文書には、社伝に曰く寛平元年国司室町中将が再建したとある。また古老の伝説によれば当社は那波郡従三位國魂明神と言い伝え、中世において飯玉明神と改めた。天武天皇の勅命により毎年十月末の午の日より十一月初めの午の日まで満十二日の間、境内に注連縄を引きまわし人馬の出入りを禁じた那波神事を行った。」と書かれています(群馬県神職会佐波郡支部1924)。

(2)八郎神社(伊勢崎市福島町)

 飯玉神社の南東には福島町に八郎神社があります(写真25)。八郎神社は、神道集の那波八郎を祭神にした小さな神社で、飯玉神社と同様に阿弥大寺本郷遺跡を流れる用水路の下流に位置しています。

 『伊勢崎風土記』に書かれた八郎神社の謂われは、神道集の那波八郎の話をベースにしていますが、少し異なる内容になっています。以下は『伊勢崎風土記』の要約です。

 八郎が投げ入れられた岩屋があった沼は、小幡にある蛇喰池である。八郎は蛇龍となった。生贄の犠牲を川の上に供えて之を祀り、この川を神龍川や神流川と呼んだ。大風がおこり、石をふき揚げ、雷鳴をとどろかし、沛然として雨ふり注ぎ、樹を抜き、厳を砕き、谿振ひ山動きぬ。やがて神龍は那波郡の下福島村に現れ八郎大明神として祀った。元暦元年(1184年)に祠を改修した(伊勢崎郷土研究会1936)。

(3)上野国八宮火雷神社(佐波郡玉村町下之宮)

 飯玉神社の西には利根川を挟んで両岸に、延喜式に記された神社が二社みられます。これらの神社は利根川を挟んで北が上之宮、南が下之宮の地名となっており上下二社が一体の形で祀られたものであると考えられています。これらの古社は、上之宮が倭文(しどり)神社、下之宮が火雷神社です(写真26、27)。

 神社の詳しい創建年代は、社伝による以外は不明ですが火雷神社は『日本後紀』の延暦15年(756年)に官社となり、倭文神社は『三代実録』の貞観元年(859年)には官社となりました。当時の利根川は伊勢崎市西部の広瀬川低地を流れていたので、二つの神社は、現在の利根川沿いに流れた榛名山水系の八幡川下流を境界にして上下に区分されたと考えられます。
 火雷神社と倭文神社は、延喜式神明帳によれば大和国葛城地方にその名前が見られ、葛下部 葛木倭文坐天羽雷命神社、忍海郡 葛木坐火雷神社二座。とあることから大和の葛城氏に関係が深い神社と考えられています(尾崎1970)(写真28)。

 上野国神社明細帳によれば、火雷神社は、延喜式に記された十二社の一つで佐波郡玉村町芝根町にあり、神社は崇神天皇元年に鎮座し、延暦15年に官社となりました。主祭神は火雷神、保食命、素盞鳴命で那波八郎霊を祭神として祀ります(丑木2007)。

火雷神社も飯玉神社と同様に旧暦の十月に神社境内に注連縄を張って、夜間に行われる特殊神事「那波神事」を行っています。この「那波神事」は注連縄を張り、結界を作って人を遠ざけ、闇夜に行う特殊な神事なので古代の祭祀の形態をとどめるものと考えられています。また十月に行い別名「麦捲き御神事」とも呼ばれることから、冬小麦栽培を前にした余祝祭祀として生まれた可能性が高いと思われます。

 佐藤(2007)は、火雷神社の神官和田氏が明治28年(1895年)に書いた『郷社火雷神社調書』を転載しました。これによると那波神事の由来は以下のとおりです。

「貞観4年(862年)の十月から翌月に空が闇に閉ざされ、大雪が積もり異常な寒波が到来した。郡司の訴えに朝廷は僧侶と那波八郎を遣わし妖怪退治を行った。朝廷は妖怪退治の功により八郎に那波郡を与え、那波八郎は地元の茂木長者の娘と結ばれて、八郎明神となった。」

 佐藤(2007)は、「那波神事」にかかる複数の伝承を検討し、それらが近世において那波氏と関する伝承のなかで生まれた可能性を指摘しました。

 尾崎(1970)は、神道集の上野国九ヶ所大明神事における「八宮那波上宮 火審(雷)神、九宮那波下宮 小智大明神」の記載について、那波八郎大明神事に関連して下村に現れた八郎大明神と下之宮火雷神社を関連させて、火雷神社を八宮としたのではないかと述べました。しかし、二社の地名と上下の名称が逆になることについて誤記の可能性を指摘しましたが断定するには至りませんでした。

 また尾崎(1974)は、神道集の那波八郎大明神は八宮を指しているとし、神道集の編者が八宮と九宮を混同していたと考えました。また、神道集の八郎大明神の本地仏が薬王菩薩であることから旧那波郡の「薬王」を山号や寺号に冠している寺院を5カ所あげ、また阿弥大寺本郷遺跡に隣接する旧名和村阿弥大寺町大字薬王地薬王神社を上げています。

(4)飯玉神社を取り巻く神々

 以上の飯玉神社とその周辺で語られ伝えられた伝承や学説は、阿弥大寺本郷遺跡の周辺に残された歴史的な痕跡であると考えられます。第III章で語られた神道集と火山災害の伝承とこれらの歴史痕跡はどのように関連し、理解されるのでしょうか。

 飯玉神社の創建に関わる伝承には、安閑期と寛平元年があります。安閑期は(532〜535年)、寛平元年(889年)です。古墳時代後期の6世紀前半に群馬県内で神社が存在していたことは、考古学的にはとても考えにくいです。県内最古の神社と考えられる遺跡は、前橋市鳥羽町の鳥羽遺跡で奈良時代のものです。

 飯玉神社の伝承に残された安閑期は6世紀前半の中葉であり、最新の研究が明らかにした榛名山二ッ岳の伊香保噴火の年代に限りなく近いものです。安閑期の記事は、日本書紀にも上野国緑野屯倉の成立に関わる話があり、それが伝えられた可能性も残ります。しかし、神社周辺の広範囲が伊香保噴火のラハールにより大災害を被った時期に前後して畿内から保食神を勧請したという流れは、全くの作り話には思われません。

 保食神であるうけもちの神は、古事記や日本書紀に登場する女性神です。記紀のいずれの保食神も死によって女性神の体から穀物が生まれる神話です。これらは東アジアや東南アジアに広がる穀物の起源を語る神話と同型の話で大地の地母神を思わせる内容です。

 死からの再生といったテーマ性が保食神の性格には付きまといますが、これは低地を中心とした稲作農耕以前の焼畑農耕による栽培イメージ、森が焼き払われた後の草地に穀物が生まれるといった、自然の再生が神話化されたものだと考えられています。

 ともすると広域な被災を受けた当地が古墳時代の農地復興を行うにあたって、なんらかの保食神による共同体祭祀が復興を進めた地域の指導者によってはじめられたのではないか?と考えることは許される範囲の類推ではないでしょうか。それが火雷神社や飯玉神社の主祭神として受け継がれた可能性はあるのではないかと思います。しかし、この祭祀に関しては、今のところ考古学的な証拠は全くありません。

 神道集で語られた那波八郎が、火山災害にかかる自然災害であったと仮定したら、この地域の寺社はどのようにこれと関わりを持つのでしょうか。

 火雷神社も飯玉神社もその祭神の中に八郎大明神を内包しています。もちろん、これらが神道集の成立と共に後世になって取り込まれた可能性は否定できないでしょう。しかし、当地で那波八郎が神として現れた比定地であること。この地域に八郎神社や八郎大明神の本地仏である薬王菩薩が祀られていることを考えるとこの地域の古社が自然災害を荒ぶる神として捉えてそれを祭祀に取り込んだ可能性も否定できません。

さらに飯玉神社と火雷神社に伝わる「麦捲き御神事」は、当地の災害復興の主体が畠作作物を中心とした農耕、特にオオムギやコムギといった麦作によって支えられた可能性を示唆しています。現在に残る古式に則った農耕祭祀が古代から引き継がれた要因が古墳時代の災害であった可能性は十分に考えられるところです。これに関しては最後に考古学的な検討を加えたいと思います。

これらのことから当地における古墳時代の災害と古社の祭神、古式の祀り、神道集に書かれた那波八郎の伝承とは緩やかな関係を持っていることが明らかです。その鍵語としては「安閑期」、「保食神」、「麦捲き御神事」、「那波八郎」が上げられます。

2. 飯玉神社と在地縁起

 在地縁起とは、神道集などの中世に創られた寺社の説話などを母胎にして近世の村々で書き残された縁起物語です。それらは、近世の社会において再編・整理されているので中世の物語を忠実に書き残したものではなく、その地域において情報の取捨選択を行ってより地域化した物語に変わっているものと思われます。

 しかし、その反面に神道集などに集められたおおもとの伝承が、実は形を変えつつも本質的なところを残しながら地域に伝えられた可能性も残されており、伝承に残された歴史痕跡が全く皆無であるともいえない気がしています。

 高崎市倉賀野町に鎮座する倉賀野神社は、祭神を大国魂神とする神社ですが明治時代に大国神社、さらに倉賀野神社と改称する前は飯玉宮と呼ばれ、享保19年(1734年)の神社の扁額も飯玉大明神となっています。

 倉賀野神社には『飯玉大明神縁起』と呼ばれる書物が残されており、大同2年(807年)とありますが近世に書かれたものなのでしょう。

 倉賀野神社の『飯玉大明神縁起』は神道集の那波八郎大明神事と内容においてさほどの相違はないようですが、最後に八郎が神として現れる部分では、群馬緑埜境の烏川辺に飛翔し、吾が名は飯玉であると告げたとされています(高崎市市史編さん委員会2002)。また、倉賀野神社の社殿には宮内判官宗光と神龍となった八郎が木彫となっており、神社の祭神が社殿前の彫刻で姿を表しています。このように倉賀野神社に残された在地縁起では、那波八郎自身が飯玉大明神と同一視されています。

 『群馬高井岩屋縁起』は『上野國群馬郡青海城主略年普記箕惣社落城之記』に合冊されていたもので、前橋市元総社町に伝わる長尾一夫本というものです。書写年は不明ですが江戸中期を遡るものではないとされています(近藤1959)。

 『群馬高井岩屋縁起』も『飯玉大明神縁起』と同様に神道集の那波八郎大明神事をベースに書かれているものと思われます。『群馬高井岩屋縁起』の後半部は以下のような話で構成されています。

「岩屋が鳴動して大蛇は那波郡の福島という所に神と現れ、今の八郎大明神はこれである。また八郎を鎮めた宮内判官宗光は出世して夫婦に子供が授かったが、八郎の生贄となったものの霊が小幡に現れて大騒ぎとなった。そのため子孫長久の障りを解くために、人身御供の棚場であった高井郷蒼海に寺を建立し、宗光山阿弥陀寺と呼んだ。」(近藤1959)

 佐藤(2007)によれば前橋市立図書館蔵の『上州群馬郡岩屋縁起』にも神道集の那波八郎大明神事をベースにした話が著されており、総社の釈迦尊寺の泰亮という僧侶が著した『上毛伝説雑記拾遺』にも、八郎伝説にかかる大蛇が蒼海風呂沼に出て生贄を取った話が紹介されています。

 倉賀野神社の縁起に現れる烏川は、上流部の榛名白川水系が二ッ岳火山災害の中心地です。『飯玉大明神縁起』に見られる那波八郎と飯玉大明神を同一視する見方は、周辺の飯玉神社の建造物に彫刻として残されており、近世になってからの考え方なのかも知れません。

 また高井岩屋縁起に関連した蒼海風呂沼は、榛名山麓を水源とする牛池川の谷底平野を形成する谷にあたります。風呂沼に近接する元総社北川遺跡では、牛池川の谷に層厚が3mを越える二ッ岳渋川噴火の泥流堆積物が検出されました。谷には古墳時代の畠などが埋没しています。

 これはまだ確証がある話ではありませんが、伊勢崎市に残された郷土史や地名に関する文献を見ても、伊勢崎市南西部の阿弥大寺町の町名の由来は不明でした。隣接の韮塚町は『和名類聚抄』に記された韮束が起源になると思いますので、阿弥大寺町が古代の那波郡韮束の一部であることは確かですが、なぜこの地が阿弥大寺なのでしょうか?
 阿弥大寺町の中心には薬王神社があり、これが八郎大明神の本地仏である薬王菩薩と関係がありそうなことは書きました。とすれば、阿弥大寺は阿弥陀寺のことで『群馬高井岩屋縁起』に書かれた宗光山阿弥陀寺を意味しているのかも知れません。

 どうやら在地縁起に書かれたこれらも断片的ながら二ッ岳火山災害の被災地や被災地に関連した場所に残された伝承であると考えてもよいでしょう。

3. 飯玉伝説の起源

 それでは今まで解明された考古学や火山地質学からの事実と神道集に残された可能性がある災害伝承、飯玉大明神に関連する伝承を重ねてまとめて考えてみたいと思います。

(1)古墳時代 

 伊勢崎市南西部の河川沿いの微高地は3世紀末から水田開発が開始され、集落が営まれました。集落は5世紀の利根川の洪水堆積物や5世紀末の榛名山二ッ岳の渋川噴火による降灰などの被害を受けましたが、この地が壊滅的な災害を被ったのは6世紀前半の伊香保噴火に伴う洪水堆積物によるものです(第18図)。

 古墳時代は、地域の首長や集落などの共同体規模で盛んに祭祀が行われた時代であり、災害に対して古代の社会は何らかの祭祀行為があったことが想像されます。しかし考古学は、具体的に過去の火山災害による祭祀行為そのものを復元するすべを持ちません。

 ただ、集落が復興する過程では、首長が関与して人々の流入や技術の供与が進められる以外に共同体の復興を目的とした祭祀が行われた蓋然性は極めて高いものと考えられます。これがこの地域で保食神を信仰するおおもとになった可能性は否定できません。

 伊香保大明神の話や八郎伝説の元になったと思われる災害体験から生まれた神話は、古代社会の中で共同体に話し伝えられていったものと考えられます。こうして7世紀には律令制の導入によって国や地方の政治や祭祀の体制が変わっていき、それらの神話もそのような仕組みの中に取り込まれていったのではないでしょうか。

(2)奈良から平安時代

 古墳時代の首長による地域ごとの支配から国や郡が配置された7世紀以降は、古代国家と国府からなる地方政府、そして郡や郷といった行政単位が地域ごとのまとまりを強めました。

 古墳時代の榛名山の災害を受けた地域は、群馬郡と那波郡にあたりますが、それぞれの地域で信仰され祀られた神は、神社という形態に再編されていきます。これには国家が仏教の導入したことにより寺院が造られ、7世紀以降は地方にも古代寺院が造営されたことが契機となるものと思われます。

 おそらく、上野国に山王廃寺(方光寺)や国分寺が創られる過程で、各地の神社も生まれたのではないかと思います。

 特に上野国神明帳に記された十二社の中で群馬郡と那波郡周辺の七社(伊香保、甲波宿祢、榛名、小祝、火雷、倭文、大国)が集中するのは、国府に近い古社が選ばれたと考えるほど単純な理由ではないだろうと思います(第19図)。

 火雷、倭文、大国(佐位郡)の三社は、利根川や榛名水系の河川に関連して二ッ岳の火山災害を受けた場所に生まれた神々ではないかと考えられます。また、火雷、倭文神社は二社で一体と考えられる神々であり、その起源が大和の葛城地方にあることを考えると古代における伊勢崎市南西部との関連を窺わせます。

 9世紀の前半は、関東地方北部で大きな災害があった時代でした。弘仁9年(818年)には関東地方の北西部で大地震が発生し、特に赤城山南麓では大規模な土砂災害が発生しました。この影響で赤城山麓縁の平野部にも洪水堆積物が押し寄せ、田畠が埋没する災害となりました。

 また9世紀後半から10世紀にかけては前橋台地南部の地域に洪水堆積物が複数見られ、これらは水田を埋没させています。今のところこの現象が地域的な気象災害なのか、広域的な地盤災害などに関係するのか不明なのですが、詳細な年代決定と規模の確定は今後の課題です。

 このような災害の多発期に、飯玉神社と火雷神社では貞観期に麦蒔ゴジンジと呼ばれる祭祀が再編された可能性があります。古墳時代の祭祀の流れを汲んだ農耕儀礼が緩やかなクラスターを形成したのは、この地域における麦作の重要性に容易ならぬものを垣間見た気がしています。

(3)中世

 平安時代の終わり、天仁元年(1108年)に浅間火山は大噴火をおこし、軽石と火山砂が上野国一帯に降灰して田畑が荒廃しました。これ以降に群馬県東部の地域では在地領主による地域開発が活発となり新田荘のような郡単位の大規模な荘園や伊勢神宮の荘園である御厨などが各地で誕生していきます。

 この時期に武士団と呼ばれる在地の氏族達が積極的に耕地を開発し、開拓地の権利を得て領主となる時代が中世なのです。

 当時の那波郡に力をのばしたのは那波氏を名乗る大江氏から分流した氏族でした。彼らは当時の利根川が流れる広瀬川低地以西の前橋台地一帯を勢力範囲としたのでこの地の水系である榛名山からの八幡川や前橋台地に注いだ車川、また利根川本流から台地へ取水を行って豊かな水路網を形成し、水田可耕地を確保していたものと思われます(第20図)。 

 このような前橋台地における用水は、前橋台地では古墳時代前期の4世紀に登場し、前橋市の徳丸仲田遺跡や玉村町の砂町遺跡から用水路が発掘されています。

 ところが14世紀の応永年間(1394−1427年)になると洪水などを契機に利根川は、現在の流路に流れが変わってしまいました(第21図)。これには瀬替えといった人為的な流路変更の行為があったか、自然の河川争奪だったのか未だに各説があります。また、洪水で流路が変更された時期も15世紀や16世紀など幅があるので、何度かの洪水イベントにより現在の流路に落ち着いた可能性もあります。

 14世紀以降の流路変更によって、前橋台地の南部の河川沿いの地域では、厚い洪水堆積物が何度も水田を埋没させています。また、利根川の流路変更により前橋台地北部では台地縁の取水源を失った可能性があり、用水系を復旧するための新たな水路構築が必要だったはずです。

 こうした前橋台地の復興と治水に成功した那波氏は、勢力を広げるとともに領内にその宗教的な象徴である飯玉神社を各地に分祀したのではないでしょうか。そのように考えると前橋台地周辺に広がる飯玉神社は、規模の大きな用水路の要所や近隣に立地しているように見えます(写真31)。

 また、中世以降の用水の配水圏では、水利用にあたって使用者の利害が対立することが多かったようです。水争いを生むような利水環境にある複雑な土地関係を有する地域においては、地上の権利である配水権は領主などに属さず、領主や共同体群を越えた神聖な権威に属する神社や宮座などに託する事例が見られます。このことから各地の飯玉神社は、その地域の水に関わる権利を配分していた機能を有していたかも知れません。

 また、このような経済的な利害で結ばれた地域群が宗教的な連帯感を保つために古代の神話は、現世的な地域の神の物語に変わったのが在地縁起の正体でしょう。神道集に集められた話群は、このような古代から近世への転換期である中世の草深い地域で集められたのではないでしょうか。

4.神々を生んだ地域

 第IV章では飯玉神社にはじまり、在地縁起や伝承と阿弥大寺本郷遺跡の周辺である伊勢崎市南西部の関わりについて触れました。それでは、神道集に現れた伊香保大明神と那波八郎大明神にかかる神々は、いったい何を語る存在なのでしょうか。

 その鍵語は、今までの話の中に出なかった八郎伝説のもう一つの伝説地である多胡、甘楽郡にも関係しています。

 榛名山麓の古墳時代の社会については様々な論考がありますが、比較的最近のものでは右島(2006)や若狭(2008)にコンパクトにまとまったものがあります。

 前橋台地をはじめ、榛名山東南麓の開発を考古学研究から明らかにした若狭徹氏は、関東平野北西部の利根川周辺地域の開発は、第1期が弥生時代中〜後期(1〜3世紀)、第2期が古墳時代前期(4世紀)、第3期が古墳時代中期(5世紀)としています。

 5世紀になって県内の首長墓が分散する傾向は、権力の衰退ではなく、むしろ経営主体の自立と地域経営の強化と捉え、井野川流域や榛名山南西麓、広瀬川低地や太田地域に拡大した首長圏を明らかにしました。

 そしてそれらの地域開発が5世紀に招聘された朝鮮半島系渡来技術者集団に基盤があることを述べて、それらは貯水池・築堤、大規模用水、水田の構築改善、水利が不便な場所での大規模は畠作経営、山麓を利用した馬匹生産、鍛冶や窯業、紡績業などのソフトウェア複合であるとしています。また、これらは榛名山南東麓に集中することから、保渡田古墳群を核とする西毛首長連合が畿内の王権の有力メンバーとして王権に近似した経営戦略を保有したと考えます(若狭2006)。

 同様に右島(2006)は、榛名山の渋川噴火によって保渡田古墳群は保渡田薬師塚古墳を最後に前方後円墳の形成が途絶えるため、噴火によって地域が大打撃を受けたことを物語るとしました。

 またこの時期に県内の古墳は竪穴から横穴式石室に移行し、これは畿内のヤマト政権との結びつきを直接的に示しており、畿内勢力が西毛首長の地位低下に乗じて積極的に東国への関与を深めたと考えました。特に6世紀前半に形成された藤岡市七輿山古墳は畿内政権との結びつきが濃厚で、安閑紀の緑埜屯倉設立との関わりを示唆する古墳として注目されるとしています。

 神道集の那波八郎大明神事に書かれた神々は、話の最後にそれぞれの人物がどの神になり、本地仏は何かを述べて終わります。これは神道集が仏教の立場で神仏混合の理屈で書かれた物であるため、これを説明せんがために物語が展開していたわけです。

 ちなみにこれらは、藤原宮内判官宗光は多胡郡鎮守辛科大明神(文殊菩薩)、妻の海津姫(尾幡姫)は、野栗御前(普賢菩薩)。舅である尾幡権守宗岡夫婦は白鞍大明神(男体不動明王、女体毘沙門天王)、群馬八郎は八郎大明神(薬王菩薩)、八郎の父である群馬太夫満行は長野庄の満行権現・戸椿名(地蔵菩薩)、母御前は白雲衣権現(虚空蔵菩薩)です。

 これらの神々は、辛科大明神が多胡郡神保、野栗御前と白鞍大明神が甘楽郡白倉にあらわれ鏑川中下流の神々です。八郎大明神は那波郡下福島、満行権現は群馬郡長野郷、白雲衣権現は不詳ですが、群馬郡の白岩観音や妙義山に比定する説が多いようです。また白衣では群馬郡白井郷になりますから白岩か白井を考えたいと思います。そして後者の神々は烏川や利根川水系の神々でしょう。

 概観すれば、これらの地域は、発掘調査で近年明らかになった古墳時代において朝鮮半島から渡来した人々が多く居住した場所に他ならないです。これらは鏑川水系では甘楽(かんら)郡、8世紀に渡来系集団が建郡した多胡郡が代表格ですが、保渡田古墳群を支配した首長のお膝元である長野地域も含まれます。唯一、八郎が現れた那波郡南部は、その痕跡が明らかではありませんが、阿弥大寺本郷遺跡の主体をなす5世紀後半代の集落はこの地域で突出した拠点集落として注目されるところです。

 こうして那波八郎大明神に現れた神々は、緩やかなまとまりをもって、古墳時代の榛名山麓や群馬県内に宗教的・経済的な連携を持つ場所であることがわかります。また飯玉神社の分布範囲は、中世における那波氏の勢力範囲を表すと考えられますが、大枠では榛名山二ッ岳の噴火災害地の南部を構成しているようです。

 こうした物語のつながりを大胆に類推すれば、飯玉伝説のおおもとになるものが見えてきそうです。それらは水利が不便な場所での大規模な畠作経営システムを利用した火山災害復興の姿ではないでしょうか。

 その起源は馬匹生産とセットになった半島の高燥地での雑穀や麦作を主体とし農耕文化を主導した半島系の人々なのかも知れません。5世紀後半に群馬県西部を軸に広がった農業開発は、その後の古墳時代の火山災害を乗り越えて地域を復興するために飯玉という象徴を地域に生み出したのではないでしょうか。その実体はオオムギやコムギ、陸稲を主体とする畠作システムと儀礼をもつ保食神信仰ではないかと考えます。

 そして災害を八郎に、その復興を宗光に象徴させた場合、災害を打ち負かす神々は鏑川地域を拠点とする半島系の渡来集団が暮らす地域の神に他ならないのです。八郎伝説の話に現れた、鏑川地域の宗教的優位性とはまさにこのことだったのではないでしょうか。

 そして、八郎伝説と飯玉伝説が生まれた場所である那波郡と鏑川地域の中間に位置する緑野郡は、6世紀初頭にヤマト王権の力が及び屯倉が設立された伝承地です。6世紀前半にこの地に形成された七輿山古墳の首長こそ、実はこの災害際してに半島からの渡来系集団を介して積極的に関与し、地域の復興を成し遂げたのではないかと想像します。しかし、残念なことに今のところそのような考古学的な証拠はまったく見つかっていません。

V おわりに

 昨年の秋から進めた阿弥大寺本郷遺跡の発掘調査は、多大な考古学的成果を生み出すとともに、榛名山から遠く離れた伊勢崎市南西部に火山災害の傷跡を発見する機会となりました。また、発掘中の三月に遺跡で三陸沖の巨大地震の揺れを体感したことで、災害に関する過去の情報をできるだけ多くの皆さんに伝える必要性を痛感しました。

 しかし私たちが過去のことを正しく知る方法は限られており、事実のみを元にした科学的な方法の積み重ねで明らかにできる歴史的事実はとても少ないことも感じています。

 ある意味でも、この論考の第I章や第II章は科学的な考え方に成り立っていますが。第2章以降はいわゆる「疑似科学」の世界であり、検証不可能な考えです。しかしこれを機会に我々が歴史を学ぶこと。歴史をどうすれば解明できるのか再度考える機会になるような気がしてなりません。

 古墳時代において偶然に群馬県内の中央部で大規模な火山災害が発生しました。その時期は、弥生時代にはじまる共同体の祭祀が古墳時代に入って首長霊を主体とする古墳の祀りに変わり、それらが地域の共同体に普及する時期あたります(第23図)。

 我々の歴史のなかに伝わる神への信仰が発生する揺り籠の時期に、地域社会に天変地異が襲ったのです。これに関する詳しい論考は避けますが、上野国神明帳に記された十二社の中で六社の伊香保、甲波宿祢、榛名、火雷、倭文、大国は、この火山災害を契機に生まれ、再編された神であると考えられます。また小祝は、9世紀の弘仁地震に活動した可能性が疑われる深谷断層系の直上に立地する神社でもあります。

 科学が進歩しなかった古代において身近な災害は、総て神のなせる技でしょう。その自然営力や規模が大きいほど、その地域の社会に与えた精神的な影響は大であると思われます。こうした観点では神話に登場する八岐大蛇は3世紀頃の気象災害、八郎太郎は10世紀に北東北を襲った大規模な火山災害が起源だと思います。なぜ、このようなものに共通して「八」を使うのか何か意味があるのに違いありません。

 戦乱の中世を終えて、合理的な科学思想が形成された近世の社会においても災害伝承は地域の中に残り語り継がれました。また神社の彫刻にそれが現れているのは、人々が科学的ではないにせよ、そうした災いがあることを知っていたのでしょう。

 現代に暮らす私たちは、その豊かな生活を自然から享受しながらも、いつしかそれを忘れてしまいました。

 そして私たちの故郷が大自然の猛威によって打ち砕かれたときに、そのことを改めて思い出すのでしょうか。

 語り継がれてきたもの、地域の歴史に残されたもの、地下から掘り出されてその存在が明らかになったことなど、我々は歴史に学んで生きていくことで、より良い未来を構築することができると信じています。そのような歴史を考える一助になればと思いながら、「飯玉とは何か」の筆を置くこととします。

謝辞 神道集の伊香保大明神の話と二ッ岳の噴火が似ているとを最初に教えてくれたのは、火山灰考古学研究所所長・前橋工科大学講師の早田勉さんです。また、阿弥陀寺本郷遺跡の発掘調査では、調査を担当した同僚の皆さんから様々なご助言をいただきました。『群馬文化』への投稿や写真の転載を許可いただいたのは財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団のご配慮です。以上の皆様、機関に感謝いたします。

文献

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川原秀夫(2005)古代上野国の国府及び郡・郷に関する基礎的考察『ぐんま史料研究』23 1-24頁

近藤喜博(1959)『神道集』角川書店 501頁

町田洋・新井房夫・小田静夫・遠藤邦彦・杉原重夫(1984)テフラと日本考古学『古文化財の自然科学的研究』同朋舎出版 865-928頁

右島和夫(2006)榛名山噴火が地域にもたらした影響『はるな30年物語』かみつけの里博物館 89-97頁

森山昭雄(1971)榛名火山東・南麓の地形『愛知教育大地理学報告』36・37 107-116頁

能登健(2002)考古学による日本の畑作研究『東アジアと日本の考古学IV生業』同成社 119-150頁

老川和寛・宮地直道(1985)二ッ岳降下軽石の層序と運搬様式『関東平野』2 63-74頁

尾崎喜左雄(1966)榛名山の一峯二ッ岳の爆裂とその前後期における横穴式古墳の研究『横穴式古墳の研究』吉川弘文館 281-291頁

尾崎喜左雄(1970)上野国上代神社についての一考察『上野国の信仰と文化』尾崎先生著書刊行会 1-40頁

尾崎喜左雄(1974)『上野国神明帳の研究』尾崎先生著書刊行会 401頁

佐藤喜久一郎(2007)『近世上野神話の世界−在地縁起と伝承者』岩田書店 389頁

早田勉(1989)六世紀における榛名火山の二回の噴火とその災害『第四紀研究』27 297-312頁

早田勉(1995)古墳時代の榛名大噴火と災害『講座文明と環境−人口・疾病・災害』朝倉書店 106-113頁

早田勉(1996)関東地方〜東北地方南部の指標テフラの諸特徴『名古屋大学加速器質量分析計業績報告書(VII)』  256-267頁

早田勉(2006)古墳時代の榛名大噴火−火山灰からさぐる噴火のうつりかわり『はるな30年物語』かみつけの里博物館  54-66頁

高崎高等学校地学部(1969)榛名火山二つ岳の活動史『日本学生科学賞』 210-215頁

高崎市市史編さん委員会変(2002)飯玉大明神縁起『新編高崎市史』資料編14 社寺 571頁

丑木幸男編(2007)『上野国神社明細帳』群馬県文化事業振興会 360頁

矢口裕之(2011)文化財レポート、広瀬川低地・韮川右岸で見つかった遺跡―伊勢崎市阿弥大寺本郷遺跡の発掘調査『群馬文化』306 31-38頁

若狭徹(2008)古代首長による開発と経営『上毛三山 赤城・榛名・妙義の歴史と信仰』安中市ふるさと学習館 76-81頁

財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団編(2011)阿弥大寺本郷遺跡『年報30−平成22年度事業概要』

第16図 飯玉神社の位置
1阿弥大寺本郷遺跡 13飯玉神社(堀口町) 15火雷神社 16倭文神社
写真24 伊勢崎市堀口町にある飯玉神社。上野、武蔵野国の飯玉神社の総本社。
写真25 伊勢崎市福島町にある八郎神社。現在の場所は神社を移転した場所である。
写真26 玉村町下之宮にある火雷神社
写真27 玉村町上之宮にある倭文(しどり)神社
写真28 奈良県葛城市にある葛木坐火雷神社
第17図 飯玉神社と周辺の神社
写真29 高崎市倉賀野町にある倉賀野神社(飯玉宮)
写真30 倉賀野神社社殿の木彫 龍が八郎、琴を弾くのが宮内宗光
第18図 飯玉伝説の地と二ッ岳火山噴出物の分布
第19図 榛名山麓の上野十二社の分布(七社)
第20図 分祀された飯玉神社の分布と主要河川(用水路系)
第21図 中世における前橋台地付近の利根川流路の変更
写真31 高崎市中尾町の飯玉神社
写真32 飯玉神社(中尾町)の木彫
上 神龍 左下 スサノオ 右下 奇稲田姫(田口正美先生のご教示により訂正)
第22図 神道集の神々の分布図
写真33 阿弥陀寺本郷遺跡で発掘された古墳時代の畠跡。オオムギの植物珪酸体が検出され、麦栽培の可能性が検討されている。
第23図 まとめ
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