飯玉とは何か?

III 神道集に残された火山災害の伝承

1. 神道集の成立

 神道集(しんとうしゅう)は室町時代にまとめられたとされる唱道集です。安居院(あぐい)と呼ばれる組織によって延文年間に作られたとされ、全10巻で50話が収録されています。これは本地垂迹説の立場に基づいて仏教側から書かれた神仏の物語であり、神道についての説も含まれています。

 神道集で取り扱われた話は、関東や甲信地方を中心とした東国の神社に関するものが多く、特に当時は上野国と呼ばれた群馬県内の話が多く収録されています。

 このことから神道集は群馬にゆかりのある人物や集団によって地域の伝承が集められ、やがて編纂された可能性が高いといわれています。

 近藤喜博(1959)は『神道集』は原神道集から唱道を母胎としながら成長した文学で、口承上で流動していた時代が長かったと考えており、東国著作説に立って赤城明神を中心とする上州唱道団の手で唱道テキストとして編集された原神道集が京都の安居院に修訂を求めて編纂された可能性を指摘しています。

群馬県内の神仏に関係するものは以下のとおりです。
3巻 上野国九ヶ所大明神事
6巻 上野国児持山事
7巻 上野国一宮事、上野国勢多郡鎮守赤城大明神事、上野第三宮伊香保大明神事
8巻 上野国赤城山三所明神内覚満大菩薩事、群馬桃井郷上村内八ヶ権現事、上野国那波八郎大明神事

 なぜ神道集に群馬県内の寺社縁起が収録されたのかについては諸説がありますが、ここでは詳しく触れません。また、赤城や榛名山、子持山などに関する話が多いことは、古代から中世にかけて盛んになった山岳信仰などの影響が背景にはあると思えます。

2. 上野第三宮伊香保大明神事

(1)話のあらまし

 伊香保大明神の後半の話は以下のとおりです。

 光仁天皇の時代に上野国国司である柏階(かしわばし)大将知隆が国内の農民を圧政によって苦しめた。伊香保山で七日間の巻狩りを行い伊香保沼で馬を沈め、鹿の死体であたりを血で汚した。

 また、沼の底の深さを知ろうとして藤蔓を集めて深さを測ろうとした。

 その夜に女が夢出て「この沼の底は丸くて狭い、鉢の形に似ている。深さを知りたいなら図形に表すであろう」と告げた。そう告げるとその夜のうちに数百mほどの小山が出現する夢を見た。

 夜が明けると上が狭く下が広い山が出現していた。国司は不思議に思ってこの事を都に報告するべく山を下った。

 その後、この沼は新たにできた山から西へ移動して、もとの沼は野原になってしまった。

 国司はこれを見て驚き、里へ下りる途中に岩滝沢の上で一頭の鹿を追い出した。岩滝沢の北岸に鹿を追い下ると鹿は水沢寺の本堂に逃げ込んだ。

 国司は大勢で本堂を取り囲み、鹿を本道内陣に追い込んで射殺してしまった。

 水沢寺の僧達は、鹿を奪って埋葬し大門のそばに塚を築いた。また、国司や配下を仁王堂から下に追い払った。

 寺から追い出された国司は激怒して、仁王堂に火をかけた。3月18日の事である、東南からの季節風で金堂や講堂、経蔵、真言院、法華院などが焼失し、お堂は三十余、坊舎は三百余が灰燼となった。

 水沢寺の別当である恵美僧正は上京して事件の詳細を報告した。これを聞いた朝廷は国司を捕らえて佐渡へ配流するために検非違使を派遣しようとした。このときに世にも不思議な事件が起こった。

 伊香保大明神は、山の神を集めて大石を運ばせて石楼(石牢)を造って国司やその代官を捕らえる準備をした。

 国司はある日の夕方、多くの武士を集めて盛大に蹴鞠を行っていた。すると伊香保の大獄の方から一塊の黒雲が立ち登り、一陣の旋風が吹き下ろした。すると車軸のような豪雨が激しく降って、あたり一面が真っ暗闇の中に迷い込んでしまった。国司達は行方不明となり、家中は大騒ぎとなった。

 やがて風もおさまって国司と代官を捜し回ったが、その姿を発見することはなかった。

 これは伊香保大明神が伊香保の頂上から山の神を遣わして主従二人を捕らえたのであった。伊香保沼の東方の窪地、沼平というところに小山が一つある、その上に山の神達に石楼を造らせて国司達を追い込んだ。石楼には焦熱地獄の猛火が燃え移って燃えさかる地獄となった。国司達は、長い年月にわたって石楼の中の猛火にあって悲しんでいることだろう。

 実は山の神の仕事で造られたので大石を積んだ格好は山とは変わらない。この山は山の神達が大きな石を積み重ねて楼に造った山であるから石楼山ともいう。

 この山の北麓に北谷沢があって冷たい水が流れていたが、石楼山ができてからは熱湯になって流れるようになった。これを見た人は湧の峰と呼ぶようになった。

 これとは別にもう一つ不思議な話がある。赤城沼の竜神と伊香保沼の竜神が沼争いをした時に西からは毛垣を取って利根川から東へ投げ、東からは軽石を取って利根川から西へ投げたといわれる。そんな大昔から渋川郷の郷戸村では湯が出ていた。

 大宝元年に大工の妻子達がお湯で衣類の洗濯をしたところ、老女があらわれ「衆生利益のために出た恵みの湯で汚れ物を洗濯するから、この湯を山奥へ運ぶ」と告げて山に向かったという夢を恵美僧正が見たという。

 僧正が調べてみると郷戸村の湯は一夜で止まり、老女が山に向かったという話は誠であったという。奥山深く入ると石楼山の北麓、北谷の沢の東方の窪地、大崩が谷から湯が出ていたという。

(2)火山との関わりにふれた研究

 尾崎喜左雄(1966)は、その著書である『横穴式古墳の研究』のなかで神道集の上野第三宮伊香保大明神事を二ッ岳の噴火と関連して紹介しました。

 物語にある山神が石牢を築くことは爆裂火口をヒントに創られたことや温泉の湧出と火山活動の関わりを指摘しています。また赤城の神が軽石を投げたことが榛名の東北麓に軽石が多く見られることから伝わった話であり、噴火が忘れられ、その事実が漠然とした後世に伝承された話と解釈しています。

 早田勉(1996)(2006)は、神道集に書かれた伊香保大明神の説話を紹介し、神道集には創作の部分が多いといわれるが、マグマ上昇の地殻変動、溶岩ドームの成長、噴火による軽石の堆積、火砕流の発生、湿った火山灰あるいは軽石の降灰、温泉の出現などの噴火に関係する現象が物語の中で描写されているようにみえると火山地質学の立場から指摘し、古墳時代に起こった榛名火山の噴火が後世まで語り継がれた可能性を述べています。

(3)話の推移と火山活動との類似

 伊香保大明神の話は、前半部の伊香保大明神の成り立ちと岩滝沢の岸に造られた水沢寺の話から構成されます。後半の話は国司の悪行と水沢寺の炎上、国司が神罰を受ける話から構成されています。

 この中には話の展開が火山地質学が明らかにした古墳時代の二ッ岳の火山活動とよく相似した部分があるので指摘します。

テキスト1「国司が沼の底の深さを知ろうといたら小山が出現し、沼が西へ移動して沼の跡は野原に変わった。」

 この話は、伊香保明神の話の流れの中で、国司が榛名山である伊香保大明神を冒涜し始めた時に現れた前兆話です。何らかの凶事の前触れとも解釈できますが、話の流れからは、意味不明な部分でもあります。しかし、これを火山活動に伴う現象としてみると大変興味深い表現があります。

 伊香保沼(榛名湖)が以前は東にあり一夜で移動した話は、一見荒唐無稽です。しかし、榛名湖が移動したことでなく、榛名湖の東にかつて沼があったと考えればよいでしょう。その場所とは、国司が里に下りながら鹿を追ったのが岩滝沢(現在の船尾滝の沢)なので、さらに上流の相馬山付近が想定されます。つまり沼があったのは、船尾滝上流の二ッ岳のあたりと想像してよいでしょう。

 沼に小山が出現し、沼が干上がって野原に変わったことは、どのような自然現象でしょうか。過去に形成された噴火口が火口湖となり、現在の二ッ岳の付近に存在していたらどうでしょう。

 古墳時代の二ッ岳溶岩の上昇により火口湖周辺が地殻変動で隆起し湖が消失し小山が出現したり、火山活動によって火口湖の水が失われるなど、噴火に先行する前兆現象と考えると理解しやすいと思います。またこの沼は、二ッ岳の渋川噴火に先立つ有馬噴火によって形成された噴火口ではないでしょうか。

テキスト2「国司はある日の夕方、多くの武士を集めて盛大に蹴鞠を行っていた。すると伊香保の大獄の方から一塊の黒雲が立ち登り、一陣の旋風が吹き下ろした。すると車軸のような豪雨が激しく降って、あたり一面が真っ暗闇の中に迷い込んでしまった。」

 この話の流れは早田(1996)が取り上げた火山噴火との相似現象が表された部分です。話の流れでは国司が神罰によって山の神に懲らしめられる光景が描写されます。

 古墳時代の渋川噴火や伊香保噴火は、マグマの噴出を伴った大規模噴火です。火口からは大量の噴煙が数キロから十数キロの高度まで上昇する噴火が考えられます。

 話を構成する大規模な噴煙柱を表す黒雲の立ち上がり、火口からもたらされた火砕流や火砕サージ堆積物の噴出を思わせる一陣の旋風の吹き下ろし。などは噴火の有様を想像させます。

 また、渋川噴火では初期にマグマ水蒸気爆発で大量の火山灰が降下して、その一部は泥雨となって降りました。豪雨が激しく降って、あたり一面が真っ暗闇の中にとの描写は、まさに大噴火で大量に噴出した火山灰によって辺り一面が暗闇になり、火山雷の中で火山灰を含んだ豪雨が見られる噴火状況と一致しています。

テキスト3「伊香保沼の東方の窪地、沼平というところに小山が一つある、その上に山の神達に石楼を造らせて国司達を追い込んだ。石楼には焦熱地獄の猛火が燃え移って燃えさかる地獄となった。」

 ここでは、前兆現象と考えられた沼の移動元と小山が沼平という具体的な地名で表されました。ここに石楼が築かれた訳ですから、二ッ岳溶岩ドームが石楼だとするとその真下であると場所の特定ができます。

 石楼は焦熱地獄の猛火が燃えさかる地獄と表現されますから、噴火によって高熱を保った成長過程の溶岩ドームの状況が想像できます。活動期の二ッ岳溶岩ドームは、溶岩の亀裂から高温の火山ガスが吹き出し、夜には高温部分が赤熱して見えたかもしれません。また、夜になると火映現象が生じ、麓からもドームの上空に吹き出す噴煙が赤く染まって見えた可能性があります。焦熱地獄の石楼(石牢)とは、活動中の溶岩ドームを表すことにぴったりの表現だと思います。

テキスト4「実は山の神の仕事で造られたので大石を積んだ格好は山とは変わらない。この山は山の神達が大きな石を積み重ねて楼に造った山であるから石楼山ともいう。」

 これは二ッ岳溶岩ドームが、粘性の高い角閃石デイサイト溶岩で構成されているため、ドームの表面は自破砕作用によって大小の溶岩塊で構成されていたのを表現したのではないでしょうか。玄武岩や玄武岩質の溶岩や砕屑丘などと違い、大きな溶岩の巨大岩塊が複雑に積み重なった溶岩ドームの姿は、まさに大石を積んだ石楼山の正体ではないかと思います。

テキスト4「この山の北麓に北谷沢があって冷たい水が流れていたが、石楼山ができてからは熱湯になって流れるようになった。これを見た人は湧の峰と呼ぶようになった。」

 現在の伊香保温泉の源泉は、二ッ岳の北東山麓に位置する沢筋から湧出しています。二ッ岳の噴火によって温泉の湧出がはじまったことを表しているのかも知れません。その後に続く、老女が温泉を移動させた話も火山活動による麓の温泉の枯渇や溶岩ドーム近くの温泉の出現などを表した話である可能性があります。

テキスト5「赤城沼の竜神と伊香保沼の竜神が沼争いをした時に西からは毛垣を取って利根川から東へ投げ、東からは軽石を取って利根川から西へ投げたといわれる。」

 伊香保テフラを構成する降下軽石は、主に二ッ岳の北東に分布しています。また、その主軸にあたる分布の範囲は利根川沿いの白井から棚下方面にみられます。現在の渋川市街北部あたりから見ると利根川を境にして北西に位置する渋川市中郷付近は、降下軽石が地下で1.5mほどの層厚があります。これが利根川を境界に軽石を投げたという話になるのでしょうか。

 この軽石は噴出源である二ッ岳に近づくにつれ降下軽石の層厚や粒径が増しますが、これを中世の人々が認識していたかはとても疑問です。また、噴火から数百年が経てば地表面は土壌に覆われ、噴火した軽石の厚さを推定することは不可能です。

 たくさん軽石が降った場所を特定できるということは、噴火前の状況を知っていた古墳時代の人々の伝承が伝わったかも知れません。

 また、伊香保大明神の話に挿話するなかで二ッ岳の噴火に伴う降下軽石の分布を暗示する話が偶然に入るでしょうか?これはやはり当時の人々が伊香保大明神の石楼山の話と軽石の起源について何らか知っていたことを示唆していると思われます。

3.上野国那波八郎大明神事

(1)話のあらまし

 那波八郎大明神の話は以下のとおりです。

 光仁天皇の時代に上野国利根川から西の七郡の中で群馬郡の地頭には群馬太夫満行(ぐんまだゆうみつゆき)がいた。彼には男子が八人いたので、満行の死後に群馬郡を八つに分けて息子達が統治した。

 八人の息子の中で八郎満胤(はちろうみつたね)は、容姿や才智に優れ、芸能や弓馬の術にも長じたので父満行の代理として都に出仕した。父の満行は、八郎を総領として兄七人を配下とした。

 満行の死後に八郎は都に上り、三年間忠勤した後に上野国の目代(代官)として帰国した。

 これを妬んだ兄の七人は、相談して八郎を夜襲して殺し、死体を石の唐櫃に入れて高井郷の鳥食池から東南にある蛇食池の中島にある蛇塚の岩屋という岩の中深く投げ込んだ。

 ところが殺された八郎は、才知が優れた人物だったので、心中深く誓いを立て池に沈められてから三年目に大竜王に近づき、また伊香保沼や赤城沼の竜神から竜水の智徳を得て鳥食池の大蛇とも良い仲になりその身は大蛇の姿に変身した。

 その後は、神通力を身につけて七人の兄たちを責めて命を奪ったが、その一族や妻子眷属まで生贄にとって殺してしまい、その子孫を皆殺しにした。

 さらに上野国中の人を皆殺しにしてしまうので、国内の嘆きは大変なものだった。

 これを聞いた朝廷は、天皇の命令を岩屋に下し、池に生贄を上げるのは年に一回だけに磨るように命じられた。

 その後、上野国では、領地を支配するものが輪番で毎年9月9日に高井の岩屋に大蛇の餌を献ずることになった。こうして二十年余りもこのような事が続けられた。

 そのころ上野国甘楽郡尾幡庄の地頭である尾幡権守宗岡(おばたごんおかみむねおか)が今年の生贄の当番になった。彼には海津姫(わたつひめ)という今年十六歳になる一人娘があり、彼女が今年の生贄であった。

 その頃、奥州に黄金を求める使いとして三条宮内太夫藤原宗成の子で宮内判官宗光(くないはんがんむねみつ)が尾幡の屋敷に立ち寄った。

 尾幡宗岡は生贄になる我が娘の思い出に、立ち寄った宗光を歓待した。やがて宗光と尾幡姫が結ばれて夫婦の契りを結んだが、尾幡姫が生贄となる9月が近づいた。

 これを聞いた宗光は、嘆き悲しんだが尾幡姫の身代わりとなって大蛇に立ち向かうことを決意した。その後は夫婦で持仏堂に入って法華経を唱えて当日を迎えた。

 高井の岩屋に到着した宗光は、贄棚に登って法華経を読み上げた。すると岩屋から大蛇が現れたが宗光は恐れずに法華経を読み続けた。

 宗光の法華経が終わると大蛇は、法華経の功徳で私は神の形を受け、上野国に留まってこの世の人々に利益を施すことにしましょうと告げて大蛇は岩屋の中に戻っていった。

 宗光が大蛇を調伏して贄棚から戻ると、人々はこの殿はただの方ではない、国の神様の仕業かも知れないと宗光を拝んだ。

 宗光が尾幡の屋敷に戻ると、その夜に雷鳴震動して大雨が降り、大蛇は那波郡に下りて下村という所で神として現れた。これが八郎大明神である。

 その後、宗光は上野国に留まって上野国司となったまま右大将に昇進した。尾幡権守宗岡は上野国の目代となった。

 やがて宮内判官宗光は神となって現れ、多胡郡の鎮守辛科大明神となった。野栗御前とは尾幡姫(海津姫)のことである。白鞍大明神は男体と女体があり尾幡権守宗岡夫婦である。また、八郎の父である群馬太夫満行も群馬郡長野庄で神として現れ、満行権現となった。これは今の戸椿名(とはるな)である。同じく八郎の母も神として現れ白雲衣権現となった。

(1)神道集の研究からの解釈

 角川源義(1988[1973])は、総社・長野庄・那波郡の時宗寺院で語り出していた八郎御霊物語と貫前信仰圏にあって、小幡の時宗願行寺を中心に語り出されていた物語の二つが統合されたものが「那波八郎大明神事」であると考えました。

 福田晃(1984)は、その著書『神道集説話の成立』で那波八郎大明神は、利根川が烏川や神流川と合流する地に祭祀されてきた荒振る大神だとし、その原話としていくつかの説話を紹介しました。また、この話とスサノヲノミコトの八股大蛇譚や中世の猿神退治譚との類似を述べています。

 また在地縁起から八郎が神として現れた場所を下福島と比定し、利根川と烏川の合流部付近としています。

 佐藤喜久一郎(2007)は、その著書『近世上野神話の世界』で群馬に関係する神道集の話と近世の上野国に残された在地縁起と呼ばれる文学を詳しく論じています。

 神道集のこの話は、「「那波八郎大明神事」は、上野国を滅ぼそうとする八郎と、八郎との葛藤を通じて、「国の父」となる宗光の、新旧二人の英雄を主人公とする、上野国再生の物語」と位置づけました。

 この話に登場する神々を家系から分類し、八郎に連なる神は榛名や妙義などの山々と利根川を神格化した上野国古層の神々と考えました。宗光に連なる神は甘楽郡や多胡郡といった地域の神であり、古層の神に対して文化的、政治的な優越性を示す話と捉え、甘楽郡・多野郡側と群馬郡の上野国衙勢力との間に生まれた政治的、宗教的緊張を示唆しています。

 また、那波郡において八郎が鎮座した場所が不明であり、物語でその理由が示されないことを指摘しています。またこの理由として、今までは八郎信仰が古代の水神信仰の延長にあるものと看做することで解釈してきたとし、那波郡が上野国最南端部で利根川に接しているため、この地が洪水の被害を受けることが多かったから、荒ぶる利根川を神として八郎神とした通説を紹介しました。

(3)説話の推移と火山活動の類似

 那波八郎大明神の話は、前半が兄弟に殺された群馬八郎満胤が大蛇に変わる話です。後半は小幡に来た宮内判官宗光が妻である尾幡姫の生贄の身代わりになって大蛇と戦い、法華経の功徳で大蛇になった八郎が神になる話から構成されます。

 この中には話の筋が地質学や考古学が明らかにした古墳時代の二ッ岳の火山災害の風景と相似した部分があるので指摘します。

テキスト6「光仁天皇の時代に上野国利根川から西の七郡の中で群馬郡の地頭には群馬太夫満行(ぐんまだゆうみつゆき)がいた。」

 光仁天皇の時代とされており古墳時代後期の時代とは合いませんが、伊香保大明神の話と同じ時代と捉えられます。

 古代の群馬郡は平安時代に編纂された『和名類聚抄』に、長野、井出、小野、八木、上郊、畦切、島名、群馬、桃井、有馬、利刈(駅家)、白衣の郷名が見られます(川原2005)。

 これらの地域は、榛名山東麓の広い範囲に相当し、北は吾妻川と利根川合流部、南は烏川右岸、東は現在の利根川流路付近にあたるので、二ッ岳の噴火で被害を受けた地域の大部分が網羅された場所であり、当時の被災地に一致するといえます。

テキスト7「兄の七人は、相談して八郎を夜襲して殺し、死体を石の唐櫃に入れて高井郷の鳥食池から東南にある蛇食池の中島にある蛇塚の岩屋という岩の中深く投げ込んだ。」

 舞台となった高井は、現在の前橋市高井付近ですが、このような沼地は過去にも現在も存在しません。高井郷の南西には当時の利根川が流れていました。近世の在地縁起では蛇塚の岩屋とは前橋市総社町にある蛇穴山古墳の切石切組積の横穴式石室を想像する見方が多いようです。

 しかし、この話の流れは伊香保大明神と基本的な部分の共通性があるように思われます。すなわち架空の鳥食池や蛇喰池は、伊香保大明神の話に出てくる沼地、高井の岩屋は石楼山、岩の中深くに八郎の遺体を投げ込むことは、国司達が二ッ岳の石牢地下に閉じこめられた点で話は共通するように考えられます。

 また、二ッ岳の噴火災害では、高井郷の地理的位置は重要です。すなわち榛名山東麓と当時の那波郡の東縁を流れた利根川流路の接点がここにあたります。また那波郡の中央を流れた榛名山麓の水系おそらく八幡川も高井から流れ出ています。当地が、古墳時代の火山災害のポイントであることに意味があるのでしょう。

テキスト8「神通力を身につけて七人の兄たちを責めて命を奪ったが、その一族や妻子眷属まで生贄にとって殺してしまい、その子孫を皆殺しにした。さらに上野国中の人を皆殺しにしてしまうので、国内の嘆きは大変なものだった。」

 龍神達の協力を得て、神通力を身につけた大蛇となった八郎は、群馬郡に在住する兄や一族を殺し、さらには一族に関係ない民衆の命を奪う存在へと発展します。一族間の遺恨が国中の人を巻き込んだ災いに発展したのです。

 つまり、これは地域において皆殺しといった無差別の死傷が派生する事件を表したもの思われ、これには伝染病や火災なども考えられます。

 古墳時代に榛名山麓で起こった渋川噴火で生じた大規模火砕流堆積物(s-10)は当時の群馬郡の大部分に及んだことが火山地質学の研究で明らかです。実際に人間が埋没した遺跡は未発見ですが、渋川市の中筋遺跡では火砕流で埋没した集落が発掘されています。

 こうした点から八郎の災いは郡レベルに及んだ火山噴火による大規模災害がイメージされるのです。

テキスト9「これを聞いた朝廷は、天皇の命令を岩屋に下し、池に生贄を上げるのは年に一回だけに磨るように命じられた。上野国では、領地を支配するものが輪番で毎年9月9日に高井の岩屋に大蛇の餌を献ずることになった。こうして二十年余りもこのような事が続けられた。」

 群馬郡内でたくさんの死傷者が出た災いは、やがて年周期の災いに変化したと見て取れます。つまり八郎のもたらす災いは、無差別殺戮から秋季のモンスーン、台風などの降雨期に犠牲が出るような土砂災害に変化して継続されたのではと考える事ができます。

 つまりこのことは、渋川噴火のおもな被災地である榛名山麓やその周辺に派生したラハールではないかと思われます。

 また渋川噴火の後に災いがもたらされた期間が二十年余りとあります。これは、渋川噴火と伊香保噴火の間が考古学や地質学で三十年程度と考えられていることに一致しています。

テキスト10「法華経の功徳で私は神の形を受け、上野国に留まってこの世の人々に利益を施すことにしましょうと告げて大蛇は岩屋の中に戻っていった。」「宗光が尾幡の屋敷に戻ると、その夜に雷鳴震動して大雨が降り、大蛇は那波郡に下りて下村という所で神として現れた。これが八郎大明神である。」

 法華経の功徳によって八郎の怨念や殺意が消え、八郎は蛇体のまま神になりました。この事件の最後は、雷や地震動を伴って大雨が降り、大蛇が那波郡に達したという描写です。

 那波郡は平安時代に編纂された『和名類聚抄』には、朝倉、鞘田、田後、佐味、委文、池田、韮束の郷名が見られます(川原2005)。これらの地域は、榛名山麓南東部の前橋台地にあたり、北東縁は当時の利根川が流れていた広瀬川低地、中央は現在の利根川流路付近にあたる榛名山麓の水系の河川、南は鏑川と烏川合流部の下流となります。この地域も二ッ岳の噴火で河川沿いを中心に土砂災害を受けた地域です。

 つまり八郎は、二十年余りの季節性の災害を経て、那波郡の南部に達して神となったということでしょう。これは伊香保噴火の降下堆積物の影響がほとんどなかった榛名山東方の地域に大規模なラハールが到達したことを表現したものではないでしょうか。

 当時の榛名東麓を水源とする規模の大きな河川は、高井を通過して現在の利根川を流れた八幡川です。八郎とは八幡川や広瀬川低地を流れる利根川本流沿いの土砂災害の被災を受けた状況を表したものと考えられます。

 八郎大明神が姿を現した下村は那波郡の南部と思われますが正確な比定地は不明です。阿弥大寺本郷遺跡の発掘調査で認められた伊香保噴火に伴うラハールは伊勢崎市南西部の河川沿いの地形を改変するほどの大災害でした。

 私は発掘調査によってこの事実を知りました。そのことが「那波八郎」の正体を考える契機になりました。

写真14 上野国三宮の伊香保神社。伊香保大明神を祭神とし、現在は伊香保温泉の温泉街上に鎮座する。
写真15 古代に伊香保山と呼ばれた榛名山系の水沢山(浅間山)。
写真16 榛名火山のカルデラ内にある榛名湖。古くは伊香保沼と呼ばれた。
写真17 水沢山の麓にある水沢寺(十一面観音が本尊である)。
写真18 榛東村の柳沢寺 寺院焼失の話がある神道集の上野国九ヶ所大明神事をもとにした在地縁起の「船尾山縁起」が存在する。
写真19 伊香保温泉から見た二ッ岳溶岩ドーム。湧の峯か?
第12図 二ッ岳の噴火によってもたらされた火砕流堆積物の分布。
早田勉(2006)を参考に作成しました
写真20 二ッ岳溶岩ドームの根元。右の岩壁は爆裂火口壁(相馬山北側)。
写真21 二ッ岳溶岩ドーム。まさに石の楼閣。
写真22 現在も湧出する伊香保温泉(源泉付近の露天風呂)
第13図 和名類聚抄にみられる古代の郷比定地と群馬郡
川原秀夫(2005)から作成しました
第14図 二ッ岳の噴火によってもたらされた火砕流堆積物の分布。
早田勉(2006)を参考に作成しました
第15図 二ッ岳の噴火によってもたらされたラハールの分布。
八郎が神として現れたといわれる伊勢崎市南部は東西からラハールが押し寄せた。
写真23 阿弥大寺本郷遺跡の地層断面
地表から3m下に見られる黒い帯(20cm)が古墳時代(5世紀末)の地面
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