講演記録 平成21年度公開考古学講座 岡本太郎 縄文の発見
     民俗学者 赤坂憲雄先生の講演を聴いて  専門員(総括) 矢口裕之

■ 縄文は爆発か?

 東京オリンピック生まれの筆者にとって、岡本太郎は幼少期最大のあこがれであった大阪万博によって知り得た名前であった。その画家がどんな芸術家なのか、国民のだれもが知らなくても、太陽の塔と岡本太郎の登場によって多くの日本国民が、新たな時代の潮流を感じ、貧しさから抜け出した明るい未来への先行きを感じたに違いない。

 そんな高度成長期に成長した私は、たびたびテレビに登場し、奇抜な言動と表情をもつ前衛的な芸術家を好奇の目で見ることはあっても、歴史的な存在である遺跡や考古遺物との関わりについて想像することはなかったと思う。

 ただ、大学で考古学や縄文土器を知る頃になると彼が縄文土器に始めて美術的な評価を与えたことを知り、芸術家の直感や感性に対する畏敬の念を持ったことを思い出した。

 今年度の公開考古学講座は、東北学を提唱して新たな民俗研究や文化活動を提唱した民俗学者で、東北芸術工科大学大学院長、福島県立博物館長の赤坂憲雄先生をお迎えして「岡本太郎 縄文の発見」と題するご講演をいただいた。当日は、会場に362名もの来場者を迎え、盛況の中で講座が開催された。

 講演の最初、赤坂先生から「今日の話で、岡本太郎と縄文がどのような関係にあるのか、わからない人が多いのでは?」との語りかけがあったが、実際そうであったろう。事業団に事前に講演内容を問い合わせる電話があったことを聞いている。岡本太郎と縄文土器の組み合わせでは、「縄文は、爆発だ」と太郎の目をむく姿を想像した来場者もあったのではないかと思う。

■ 赤坂先生と太郎

 岡本太郎が縄文に遭遇したのは、1951年の東京国立博物館であった。彼は、それまで接した古代や中世の日本美術が、大陸の文化を模倣した内向的な美であり、それらが独創性に欠けていることを見抜き、冷淡であったという。

 太郎は博物館で接した縄文土器から、日本の美術に対する価値観を根底からひっくり返すほどの強い衝撃を受ける。縄文土器や土偶が発する文様や造形に先史社会の固定しない流動的な美的エネルギーを感じ、日本列島の歴史の片隅から日本人の美の根底を再発見する。

 また、当時の考古学者が縄文土器を年代を測る物差しとして研究の対象としていたことに対して、土器から縄文人の心的世界や社会を読み解くことが可能であることを提言する。

 しかし、赤坂先生は、太郎が提言した縄文土器に対する見識や発見は、芸術家の持つ直感や感性のなせる技だけではないと語る。

 じつは、岡本太郎は40代の頃に1930年代の芸術の都パリに渡り、抽象芸術運動に身を置き美術を学んでいた。その留学生活は前衛美術に限らず、パリ大学や人類学博物館で人類学や民族学を学び、世界の先住民族の美についても見識を深めていたらしい。

 そして戦後になって太郎は、出会うべくして縄文土器にたどり着くのである。それは必然性によって導かれた偶然の再発見だったのである。海外で培われた民族学者としての太郎により、縄文土器は再発見されたのだ。

 講演を聴き、太郎が縄文の美を発見したように、まさに赤坂先生は、縄文研究者としての岡本太郎を発見し、現代の我々の関心事に彼を発掘したのだとおもう。この講演内容の元になった著述は、岩波書店から『岡本太郎の見た日本』として2007年に出版されており、芸術選奨文部科学大臣賞やBunkamura ドゥ マゴ文学賞を受賞しているので、ぜひ一読してほしい。

■民俗学と考古学の対話

 赤坂先生は、民俗学は俗っぽいという字を使う学問で、日本民俗学は柳田國男によって始められた学問であると語る。

 柳田は、「史料を中心とした歴史のみでは地域の生活文化の総体は見えてこない」と文献中心主義の史学を批判したことが知られている。また、考古遺物などの過去のモノにこだわることにも警鐘を鳴らしていたという。

 つまり、時間を超えて似ているモノを調べるよりも、今に残る暮らしや生業に心や精神の分析を行うことの方が先決であるとした民俗学の研究姿勢を提唱したのだ。こうした考え方は。民俗学の根底に流れており、考古学と民俗学の交流が極めて少ないのだと語る。また、現代社会の中にどのような形で縄文文化が残っているかを民俗学の立場で考えることも一種のタブーなのだと話された。

 先生はこのあと、東北地方を野外研究するなかで縄文との関わりを深く考察するようになり、民俗学がこだわってきた血の穢れの民俗と縄文遺跡の関連性や山岳と縄文人の行動範囲、縄文人の墓と現代の両墓制について示唆にあふれる講演を展開され、時間が経つのも忘れさせてくれた。

 今後、考古学と民俗学が対話と交流を進めることによって、両方の学問が更なる発展の可能性を持つことを指摘されたが、これは私たちに対してのエールであると思われる。

 時間軸をもつ歴史科学としての考古学と人と集団の心を解読できる民俗学が、今風に言って「コラボレ」ば、考古学は縄文人の精神社会を読み解き、民俗学は日本人や日本社会に残る縄文文化の流れを解明する日も来るに違いない。

 こうした機会をとおして相互の交流が深まり、新たな研究者が生まれていくことを今後に期待して、今回の公開考古学講座の感想にかえたいと思う。

多くの来場者で会場が埋まる
講演中の赤坂先生
縄文土器の力強い表現力を写真で解説
講演後のサイン会も大盛況


赤坂憲雄先生の略歴

1953年 東京生まれ
1979年 東京大学文学部卒業 大学に常勤職を持たない、いわゆる在野の学者として活躍する。
専攻は、東北文化論や日本思想史。
1996年 東北芸術工科大学教授
1999年 東北芸術工科大学東北文化研究センターを立ち上げ『東北学』や『季刊東北学』を拠点
としながら、東北学という名の文化運動を押し進めてきた。
 現在は、東北芸術工科大学大学院長、同東北文化研究センター所長、福島県立博物館長として「いくつもの日本」から「いくつものアジア」へ開かれていく、新たな日本文化像の構築を目指している。

本文は、財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団発行(平成22年3月23日)の埋蔵文化財情報誌「埋文群馬」No.51 10-11頁を許可を得て転載しました。
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